平成24年12月

 師走に入り、衆議院選挙の幕が切って落されようとしています。今度は、かつてない多党化で選ぶ方も迷う人が多いのではないでしょうか。
 政治家の本質を説いたものとして名高い「論語」の中で、ある弟子が師の孔子に「政治の要諦は何ですか」と質問しました。それに対して師は、「それは食料と軍隊と信頼だよ。なかでも一番大切なものは信頼だな」と答えている。信なくば全てのものは空しい、信が根本だ(無信不立)と答えたわけです。
 食料も軍隊も目に見える。だが、それ以上に大切な信頼は目に見えない。思えば
この世のものは、大事なものほど目に見えないようになっている。

 比叡山学院の小林隆章学長に、ある学生が、「死ねば次の世があるのでしょうか」と質問しました。師が「あります」と答えると、学生が「先生は見たことがあるのですか」。師が「ありません」と答えると学生は「見たことがないのにどうしてあると思えるのですか」。
 すると師はその質問には答えず学生に、「君は明日という日があると思いますか」と尋ねた。「はい、あります」と学生が答えると師は「君はそれを見たことがあるのですか」。「いいえ、ありません」。すると師は「見たことがないのにどうしてあると思えるのですか」。学生は一言もなかったという。

 信なくば明日の日も迎えられないのです。選挙公約は目に見えるのでわかり易いが、それ以上に大切なものがあることに刮目して投票したい。
平成24年11月

 神戸市で保護司の集りがあり、そこで、世間を恐れさせているヤクザの更正保護の困難さが話題になっているのを聞いて、一人の男のことを思い出した。
 安政の頃、吉田松陰は斬首される前日、獄中で門人にあてた遺書『留魂録』を書きあげ、それを近々、八丈島へ流罪になるヤクザの吉五郎に託した。それから十五年の月日が流れて彼は東京に帰ってきた。乞食同然の姿だったが遺書だけは懐に大事に入れていて、苦労して門人を捜しだして手渡すことができた。今は政府の高官になっていた門人は感激して、必ず身の立つようにしてやるといったが、彼は、「とんでもござんせん。ばくちうちなどというものは、もともとカタギの檀那方とはお付き合いできるものではありません」と言って、そのまま消息を絶ったという。子母沢寛の歴史エッセーにある逸話だが、これを思いだして、久しく見失っていた親に再会できたような、なつかしい気になった。
 司馬遼太郎は著書『風塵抄』の中で、三菱の創業者、岩崎弥太郎の借金の証文を紹介している。それは「もし返済が遅れたらお笑い下さい」とあるだけだった。作家は続いて、「どんなに金が欲しくても人に笑われまいとするのが日本の恥の文化で、それは日本の唯一の民族遺産である」といっている。苦労して門人へ遺書を届けたヤクザが利を受けとらなかったのも、それが恥だと思ったからだろう。ヤクザも民族遺産をよく受け継いでいたことがわかる。日本にはそんな優れた文化のあったことを後世に伝えていきたい。日本が自滅しないために。
平成24年10月

 大勢に囲まれて、いじめぬかれた子供のいたましい自殺が次々に報じられていますが、そのたびに思いだすのが数学者・藤原正彦先生です。
 少年時代の先生は毎日喧嘩の明け暮れで、いつも生傷の絶え間がなかったという。そんな吾子をみて母親は、「お前みたいな者は進学の時、内申書が悪くなって、行きたい中学には行けなくなるよ」と、いつもしぶい顔だった。しかし父親は、「弱い者を助けるのだったら構わん」といって叱らなかった。ただ、次の五つのことだけはしてはいけないと常々厳しく言い聞かせていた。
 第一は大勢で一人をやっつけてはいかん、第二は大きい者が小さい者を殴ってはいかん、第三は男が女を殴ってはいかん、第四は刃物を手にしてはいかん、第五は相手が泣いて謝ったらすぐに許してやらねばいかん、というものだった。
 少年はこれに納得できないものがあったので、何故そうなのかと何度も聞いてみたが、父はただ一言、「卑怯だからいけないのだ」と答えるだけだった。
 年輩の人にはこの訓戒は素直に肯定できるものがあるのではなかろうか。ほぼ同じような価値観をもった親に育てられたからです。
 思えば昔もいじめはあった。しかし今日のように相手を追いつめるような話は聞いたことがない。一人の人間を大勢の者が寄ってたかっていじめるということは、卑怯なことだと皆がなんとなく思っていたからではなかろうか。
卑怯者を人間の屑とみる感性は先祖の遺してくれた無形の遺産。大切にしたい。
平成24年9月

 恒例の2泊3日の「夏のつどい」を先月初旬に営んだ。今年で44回目となり、今回は小中学生100名、リーダー30名の大世帯だった。
 法話はいつものように五戒(仏の五つの戒め)の話だったが、その中の不偸盗戒(ドロボーしてはいけない)の話をしながら、時代の流れを感じた。一口にドロボーといっても、時間を浪費する、自己の信用を落す、人の苦労を苦労と思わない等いろいろあるが、基本は人の所有物を盗らないことである。
 そこで話の中で、「スーパーで万引きしたことのある人は手をあげて」と言うと、ハイと勢いよく手をあげる子が、いつも何人かいる。そんな子にとって、万引きとはゲームの一種なのかもしれない。それから、万引きはものすごくいけないことだと言ってきかせると、みな一様に驚く。盗みは悪だと知らないのだ。
 哲学者の梅原猛先生は事情があって伯父さんに育てられた。子供の頃の先生の成績はよくなかったらしい。そんな甥をみて伯父は、「まあ、ええがな」というばかりで決して叱らなかった。ところがある日、嘘をついたのがばれた時の伯父さんの顔は急変して、ふるえあがるほどこわかった。それを見て甥は嘘をつくことが悪いことだと身にしみてわかったという。そのことで先生は、「近頃の親はテストの成績が悪いと叱る親は多いが、道徳上の過ちをおかしたことを真剣に怒る親は少なくなっているのではないか。これが子供の危機だ」と言っている。

  山守りの許さぬほどは山かげに落ちたる栗も拾わざるべし (月照)
平成24年8月

 昭和24年、昭和天皇が佐賀県に行幸された折、ある孤児院を訪問された。
陛下は、部屋ごとに足を止め子供に声を掛けられていたが、ある部屋で二つの位牌を抱きしめる少女をごらんになり、急に厳しいお顔になって「お父さん、お母さん?」とご下問になられた。少女が頷くと「どこで−」とおたずね。「お父さんは満ソ国境で戦死、お母さんは引き揚げ途中で病気で−」と少女がお答えすると、「お寂しい?」と質された。すると少女はお答えした。
 「いえ、寂しいことはありません。私は仏の子です。仏の子はお浄土に往ったらまたお父さん、お母さんに会えるのです。お父さん、お母さんに会いたいと思うときは仏さまの前に座ります。そして、そっとお父さん、お母さんの名前を呼びます。するとお父さん、お母さんは私のそばにやってきて抱いてくれます。だから寂しいことはありません。」
 陛下は女の子の頭をなでて、「仏の子はお幸せね。立派な人になってね」と仰せられた。見れば陛下の涙が畳をぬらしていた。県知事はじめ周囲の人はみな泣いた。陛下に害意をもって参列していたシベリア帰りの過激な共産主義に洗脳された人々も声をあげて泣いた。以上はそのときの孤児院長・調寛雅氏の『天皇さまが泣いてござった』(教育社)によるものです。

 「まざまざと在ますがごとし魂まつり」
やがてお盆です。遠くの国から帰ってくる懐かしい人々の声なき声に心の耳を傾けていきましょう。
平成24年7月

 別冊『正論』(17)に、一人の若い女性が宗教のマインド・コントロールから脱出した手記が掲載されている。血のでるような魂の再生の記録である。
 彼女を縛りあげていた宗教とは、近未来にやってくる世界の終末の時、神が邪悪なものを焼き尽し人類を滅ぼす。その時、教団の信者だけが生き残りをゆるされて栄えるというものである。
 その教団では、日の丸や君が代は国家を賛美するものだから禁止。また学校での騎馬戦や柔道の格闘技も禁止。また正月、年賀状、七五三、大晦日の掃除等は、邪教の神道に由来するものだから、これも禁止。こうして伝統などから隔絶されて彼女は19才の春を迎えた。そのころから、「あれを食べたら死ぬ、こうしたら死ぬ」といった毎日に疑問を感じはじめていたが、ある日、人から柏餅を貰い辞典で調べると、「端午の節句」とある。「ああ、これも食べたら死ぬ食物か」と思ったが、「どうせ死ぬなら食べて死にたい」と思い、パクリとやってみた。
 「あゝ、甘い」。急に涙があふれてきて19年間の恐怖を一挙に洗い流すかのように一晩中泣きつづけた。魂の夜明けを迎えた一瞬だった。
 マインド・コントロールといえば響きは悪いが、要するに教育の影響を受けることである。どんな教育を受けるかが問題だ。「かくばかり親の日頃のあるままをみごと演ずる名優わが子よ」という歌があるが、子は親の言うことは聞かないが、する通りにはする。その桎梏から脱しえた彼女は幸せだった。
平成24年6月

 排尿がスムースにいかないので泌尿科で手術をうけた。術後もはかばかしくないので、いよいよ最後の手段かと諦めかけていたとき、念願の一滴がひょっこりでた。感激の一語に尽きる一瞬だった。膀胱に穴を開けて袋を下げている人に聞くと、残尿の苦はなくなる代りに排尿の爽快感は永久に失なわれるという。

 「飛鳥へ そしてまだ見ぬ子へ」という本がある。著者は三十代の半ばでガンの宣告を受けてから、後に残る幼い子と、奥さんのお腹の中にいるまだ見ぬ子のために手紙を書きはじめたのが、後に本になったのがこれである。その中に、
「本当の宝物は遠くにあるものではなく近くにあるものなのだよ。水を飲めばそれがお腹の中にはいり、トイレに行けばオシッコがでる。目を開けば遠くの山が見え、耳をすませば小鳥の声が聞こえてくる。これが本当の宝物なんだよ。でも健康な人はそれに気づかないのが悲しい」
と著者は二人の子に語りかけている。病床でこの一節が思いだされ、しみじみかみしめた。仏教詩人・坂村真民氏に、
 「病がまたひとつの世界をひらいてくれた 桃咲く」
という短詩がある。病は今まで気づかなかった世界を開いてくれる。だから昔の人は「病は善知識なり」といっていた。
 「あたりまえ」ほど有難いものはないのに、普段は無視している。その尊さに気づかずに不平不満の日を送っている人を福盲という。世に福盲という心の病を患っている人ほど気の毒な人はいない。
平成24年5月

 先般、お寺の地区の老人クラブの花見がお寺の花の下であり、隣席の人が、元特攻隊員であった関係から、いろいろ当時の話を聞かせてもらい興味深かった。

 「南海にたとえこの身は果つるとも 幾年のちの春を思えば」

 上は、その時この人から教えてもらったもので、17才で散華した若者の遺歌です。これを繰り返し口ずさんでいるうち、私はこの若者が死んで行けた理由がわかったような気がした。それは「幾年のちの春」という目的があったからです。鹿児島知覧の特攻慰霊館に詣でると、若者たちの遺書がずらりと並べられているが、それを読めば彼等がどんな気持ちで死んでいったのかが想像できる。彼等は親や弟妹をまもるという「目的」があったから、死んでいけたのである。

 「人は何のために生きているのか」という永遠の問題があるが、それに対して「そんなこと考える必要ない。生れてきたから生きているだけだ」という論がある。でも、それはその人が幸せだから言えることで、いざとなったらそんなわけにはいかないということを若者たちの遺書は教えてくれているような気がする。

 当山に長い間ご法話にきて下さっていた広島大学名誉教授・山本空外先生は、よく法話の中で「私はいろんなことを経験することで一人前の人間になるため、今ここに生きている」と語っておられた。
 人生は悲喜苦楽、盛衰浮沈のくり返しだが、それがみな一人前になるための糧であると思えば、そのいちいちは、徒やおろそかには受けとれないものがある。
平成24年4月

 震災がれきが東北の復興を妨げる要因として注目されているが、自治体のトップとして最初に受入れ宣言をしたのは静岡県島田市。市長の桜井勝治氏が、その顛末を「新潮45」4月号に寄せている。
 宣言したとたん、メールが次々にきたが、「よくやった」というのはわずかで、ほとんどは罵詈雑言だったらしい。「お前は人間のクズだ」「サリンをまくのと同じだ」「家族一同、夜道は歩けないぞ」といった類のもので、「放射線量はあなたの家庭のゴミと同じレベルのものです」と説明しても、一切聞く耳をもたない。多くの自治体トップが、がれき受入れに及び腰なのは、この「嫌がらせ」のせいだと市長は述べている。
 それを聞いて思い出したのは、セイタカアワダチ草のこと。あの外国生れの種が日本に上陸してからアッという間に野も山も黄色い花で埋めつくされ、花粉のアレルギーに悩む人は恐怖を覚えたものです。それが今はあまり見かけなくなったばかりか、時どき見かけても往事の猛々しさはない。その謎はこうだと学者が言っていた。あの草は自分を拡大させるために周囲を枯らす胞子を放出する。それでアッという間に山野を埋め尽くすことができたのだが、すると今度はお互いが放出しあう胞子で自家中毒に陥った。これがあの草の衰退の原因らしい。

 慈悲とは梵語で「友としての悲しみ」という意。自己中心になって友の悲しみを忘れると自分も滅ぶということを、あの草は教えてくれているような気がする。
平成24年3月

三月十一日が近づいた。当時の新聞は不安と絶望を伝えるものばかりだったが、その合間に一条の光明を感じさせられるような投書にも出会った。

「避難所で四人家族なのに『分けあって食べます』と三つしかおにぎりをもらわない人を見た。凍えるほど寒いのに、毛布を譲りあう人を見た。きちんと一列で順番を守って物資を受けとる姿に、日本人の誇りを見た」。

「四時間の道のりを歩いて帰るとき、『トイレのご利用をどうぞ』と書いたスケッチブックを持って、自宅のお手洗いを開放していた女性がいた。彼女を見て私は思わず感動して涙がでた」。

あれから一年が経とうとしている今、先般、こんなニュースがでていた。

「宮城県警は平成23年に県内で拾得された現金が22億円に上ったと発表した。警察に届けられた金庫には1億円が入っていたケースもあった。遺失物届けが出ている現金は87億円、拾得額とは65億円の開きがあるが、県警は『相当数は津波で流されたのではないか』とみている」。

いずれも日本に希望を感じさせるものだが、かつて我々の父母や祖父母は空襲の廃墟から立ち上って日本を再興してくれた。今、その子孫が今回の災難に挑んでいる。日本人が駄目になったという声をよく聞く昨今だが、民族に埋めこまれた遺伝子は簡単に消えない。「里のなまりはなかなか消えない」という諺の通りだ。復興の日の早からんことを念じ、三月十一日には犠牲者に黙祷しよう。
平成24年2月

「涅槃図の象は嗚咽の鼻をたて」
2月15日はお釈迦さまが印度のクシナガラで2550年前に亡くなられた日。その日のために仏教寺院では涅槃会が営まれる。盆や彼岸などにくらべて影の薄い行事だが、その時には大きな涅槃図が掛けられる。これを見ると、人間だけではない、ありとあらゆる動物がお釈迦さまの死を嘆き悲しんでいる様子が描かれている。
お釈迦さまは晩年、生れ故郷に帰ろうとする旅の途中で亡くなられた。八十才の時であった。それを寿命といっているが、寿と命は内容が異なる。寿は喜寿とか米寿とかいうように、長短がある肉体のいのちである。だが命は、そんな比較されるいのちではなく、短くても長くても、生きても死んでも変らぬ平等のいのちをいう。仏法では、そんないのちを無量寿のいのちと呼んでいる。

昨年末、鹿児島の知覧を訪れたので特攻平和会館に詣でた。展示されている資料の中に、明日は出撃する息子のもとに届けられた母親の手紙があった。
「ばくだんをかかえていくときは、なむあみだぶつととなえておくれ。これが母のたのみです。忘れないでいてくれたら、母はこの世に心配なことはなにもない。忘れないでとなえておくれ。こんど会う時はあみださまのまえで会おうではないか。これが何よりの母のたのみです。忘れてはならないぞ。母より」
寿をすてて無量寿に生きんとする母の尊い慈愛の手紙である。
平成24年1月

一、年うえの人の言うことに背いてはなりませぬ
一、年うえの人にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘を言ってはなりませぬ
一、卑怯な振舞いをしてはなりませぬ
一、弱い者をいじめてはなりませぬ
一、家の外で物を食べてはなりませぬ
一、ならぬことはならぬのです
右は会津福島に伝わる「什の掟」と呼ばれる児童訓です。会津では同じ町内に住む6才から9才の武士の子が10人前後で什と呼ばれる組をつくり、毎日一度集まり、年長の子がこれを読みあげ、昨日から今日にかけて、この掟に背かなかったかどうか反省会をひらいていた。
負けるとわかっていたのに、義に殉じて散った白虎隊の会津魂を培ってきた背景には、こんな歴史が秘められていたわけです。この児童訓が今でも会津の子供たちに大切に受け継がれていると聞いて、つい嬉しくなって年頭のお便りにしたしだいです。
祖先からの伝承が軽んじられ、それに伴って家庭や地域の教育力が劣え、人心の荒廃がすすむ今日、温故知新で日本の再生が心から願われる新年です。
今年が皆さま方にとってよいお年でありますように。
平成23年12月

師走に入って年末商戦もこれから佳境に入る。毎年この時期に買い物に行くと、「いらっしゃい」の声とともに、「ありがとうございます」の威勢のいい声がとんでいるが、店員はみな一様に丁寧でも、買って「ありがとう」という客は少ない。「お客様は神様です」という言葉に、いい気になっているからだろう。いくら金があっても、売ってくれる人がいなかったら、欲しいものは手に入らない。だから買う人も「ありがとう」というのが本当ではないだろうか。
インドに旅行した人の話が思い出される。インドには乞食が多いが、とりまく大勢の乞食の中に、黒いひとみが輝く一人の少女がいた。その人は彼女の可愛さにつられて他より多くのものを与えた。だが少女は礼も言わずに、そのまま立ち去ろうとする。そこでその人は茶目っ気で、「君、ありがとうと言わないの」と言うと、「礼を言うのは、おじさんの方が先でしょう。おじさんは私に施しをしたので、それでおじさんの業がひとつ消えたんだから」と少女は答えた。

日本人にはちょっと理解しにくいところもあるが、よく考えれば少女の言うとおりだ。人間には、あるが上にもまだ欲しいという果てしない欲望がある。その醜い欲望が少女に施すことで、いささかでも浄められたのだから、少女の言ったことは間違いない。「ハイ、ありがとう、すみません」が社会を潤す三大用語と言われているが、買物をして「ありがとう」という言葉が客の口から自然に出るようになったら、社会は一大進歩を遂げたことになる。
平成23年11月

ある時、釈尊は「悪いことを知って悪いことをするのと、知らずに悪いことをするのとでは、どちらが罪が重いと思うか」と、ある弟子に尋ねられました。
すると彼は「はい、悪いことを悪いと知らずにするのは仕方ありません。だから、その罪は軽いと思います。しかし、悪いと知って悪いことをするのは許されないことです。したがって、その罪は重いと思います」と答えました。
すると釈尊は再び「ここに焼け火ばしがある。これをそれと知ってつかむ者と知らずにつかむ者とでは、どちらが大きなやけどをするだろうか」とお尋ねになりました。
弟子は「焼け火ばしであることを知ってつかむ者は、十分に注意してつかみます。つかめば、どうなるかということを知ってつかみますから、できたら、つかまないようにします。したがって、やけどをすることも軽くてすみます。しかし焼け火ばしであることを知らずにつかんだ者、たとえば赤ん坊などは大やけどするにちがいありません」と答えました。
すると釈尊は、にっこりと大きく、うなずかれました。
そして弟子は、この「焼け火ばし」のお譬えで、はじめのご質問に対する自分の答えが間違っていたことに気づきました。
無知というのは悪気はないから責められないけど、罪深いものです。仏教で、知機(吾が身のほどを知れ)を強調するのは、このためです。
平成23年10月

紅葉の季節も近い。もみじは春秋の二回楽しめるし、巨木にもならず剪定も不要なので庭木には有難い木だが、欠点は虫に弱いことです。以前、盛んに苗木を買って、あちこちに植えたが、ほどよい大きさになったところで次々と枯れていき、残ったのは五本に一本もないくらいです。

以前、玄関前の一本が例年になく色鮮やかに紅葉して目を楽しませてくれていました。ちょうどそこへ植木やさんが来たので、「今年は特に美しい」と言うと、「ちょっと錐を貸してください」という。彼はそれで木のあちこちを刺していましたが、やがて小指ほどの白い虫を掘りだしてきて、「この木はもう駄目です。原因はこの虫ですよ」とのこと。
「それでもこんなに美しいが、どうしてでしょうか」とわたしがたずねると、「この虫がこんなに大きくなるには何年もかかっています。木と皮の間をぐるりとまわって養分をとって大きくなったのですが、その間に木は養分を吸いとられてしまったのです。今年で最後だと悟った木は、全力をふり絞って紅葉したので、特別に美しくなったのですよ」という説明でした。

仏に「山川草木悉有仏精」といって、草木にも心があるという言葉があります。草木は外から見れば物質ですが、内から見れば心があると思わざるをえません。
命の危機を悟って、ひときわ萌えるもみじを見て、人間も衰弱するのではなく成熟できる晩年でありたいなあ、としみじみ思ったしだいです。
平成23年 9月

身を焼く猛暑も薄らいで朝夕涼しさを感じるころになると、やがて彼岸です。
彼岸とは幸せな理想の岸という意味ですが、現実のこの世は、苦しい、いやなことの多い此岸だからこそ彼岸が望まれます。その彼岸へ渡る方法に六ツの橋が数えられていますが、その一ツが忍辱です。「よろこんで耐え忍ぶ」という意味ですが、同じ我慢でも、やせ我慢は血圧を上げるだけ。だが、その中に喜こびの種が発見されればそれは彼岸の世界へ渡る橋となる。

天才ピアニストといわれるフジ子・ヘミングさんは、日本人の父とロシア人の母との間に生れた人ですが、ウィーンでのデビューが決まった直後に風邪で聴力を失った。音楽家にとってそれは致命傷です。その間の事情は彼女の自著「魂のことば」(清流出版)に詳しいが、その中にこのような一節があります。

やっと夢がかなったと思ったところで、突然耳が聞えなくなり、奈落の底に突き落とされた。もがき苦しんでいるうちに、人の噂さ話が聞えてこない生活が、だんだん快適に思えるようになった。ひがんではいけない、どんなことでも受け容れていくのが人生よ

「人の非が見えざるようにと大いなる計いなるか目の衰えは」
これは目の衰えを感じた人の歌。
「生きている証(あかし)よ風邪もらうのも」
これは風邪をもらった人の句。
共に読売、産経の両新聞の歌壇、俳壇に登場したもの。
これらを箴言集をひもとくような気持ちで、時々思いだしている昨今です。
平成23年 8月

お盆は先にお浄土へ行った人が私に会いにきてくれる日です。だから、お浄土から帰ってくる人たちで、いっぱいになるのがお盆です。そのような浄土を有るとか無いとかいう観点からみても、それはあまり意味のないことではないかと思います。なぜなら浄土という世界は、有無をこえて無くては生きることも死ぬこともできぬ世界だからです。
北九州市若松区のある家の小学生の息子さんが不治の病にかかりました。病院はいやだ、家に帰りたいとしきりに訴えるので、親は主治医と相談して、どうせ助からない命なら家で死なせてやろうと連れて帰りました。すると坊やが看病している母に、「お母さん、ボク死ぬのでしょ・・・」と尋ねてきました。死への不安が抑え難かったからでしょう。すると母は、「何をいうの。坊やが死んだりするものか。つまらないこと考えるんじゃないの」と激しく叱りつけました。するとしばらくして、また同じ質問です。母は同じように叱りつけました。だが、三度めに時には叱らなかった。そして次のように言ったそうです。
「坊や、お母ちゃんだって死ぬんだよ。お母ちゃんが死んだら、坊やのところにすぐ行くよ。坊やは一人ぽっちじゃないんだよ、安心おし」
すると坊やはウンとうなづいて、以後、同じような質問はしなかったという。
有無を超越して存在する世界を妙有の世界といいます。お盆は妙有の世界から里帰りする人で賑わう季節です。温かくお迎えさせてもらいましょう。
平成23年 7月

東日本大震災は人々の意識を変えているようです。先日の産経新聞に一頁を全部つかって結婚紹介所の大きな広告がでていました。
珍しい広告なのでオヤと思っていたら、震災以来、紹介所に登録する人が急増し、結婚指輪がよく売れるようになったという噂を耳にしました。結婚したがらない若者が増えていると聞いていましたが、彼等に変化がおこっているようなのです。あまりにも多くの悲惨な死を見たことの影響かと思われます。
思えば我々は久しく死を忘れ、「いのち」は永遠であるかのような幻想に陥っていたのではないでしょうか。戦後日本人の歩みは、「いのち」や「死」への想像力を喪失した歴史ではなかったかと思います。震災はそういう我々を原点へ引き戻してくれた。これで我々に得るものがあるとすれば、死への想像力をとり戻し、謙虚な日暮らしを始めること以外ないのではないかと思います。
一休禅師のところに、ある人が「めでたい文字を書いてほしい」と依頼にきました。すると禅師は即座に表記のように書いて与えました。するとその人は「縁起でもない」と腹を立てたので、「では書きなおしてやろう」といって書いたのが、これと逆の孫死子死親死です。すると、その人はますます眉をしかめます。それをみて師が「やはり親、子、孫の順で逝くのが一番めでたいじゃろうが・・」と言うと、その人はやっと気づいて、「すみませんでした」と詫びたという。
世の中、順序通りにいかないことを、よく知らせてくれたのがあの震災でした。
平成23年 5月

大震災の傷跡の中から復興の槌音が聞かれる頃になって、あの嵐の中の人々の感動的な行動が漏れ伝ってきます。

宮城県気仙沼市では、温かいうどんが配られると聞いて避難所前に整列した人たちが、配られるのは二十数杯だけだと言われて、受けとったうどん鉢を後ろの人に渡し、渡された人はさらに後ろの人に渡していって、最後に行きついたのは、老人と子供でした。あの混乱の中で秩序を失なわなかった人々。

岩手県大槌町の消防分団長は、他の団員と協力して水門を閉めたあと、同僚が「早く消防車に乗れ」と叫ぶのに、彼は手を顔の前の振って乗らないとジェスチャーで示し、続けて掌を前に出して“お前たちは逃げろ”と指示した。そして彼は屋上に登って半鐘をたたきつづけているうちに波に飲まれていった。停電でサイレンが鳴らなかったのでそうしたのだろうと同僚は言っています。

宮城県南三陸町では、「津波がきます、逃げてください」と泣きながらマイクにしがみついて叫ぶうちに流されていった役場の若い女子職員もいました。

胸にせまる話ばかりですが、しかし、これはみな自分を捨てた人の話。自分が一番かわいいはずの人間が、自分を捨てた人に感動する。考えればおかしな話ですが、それはどこからか「人間らしく生きよ、尊く生きよ、けだかく生きよ」と自分にささやきかける声が響いてくるからです。その声の主は仏さま。震災の傷跡の中から沢山の仏の声が聞こえてきて、襟を正す思いにさせられる昨今です。
平成23年 3月

火と水と放射能に追れる人々を見て、「この世に安心できるところはない。人は燃えさかる家の中にいるようなものだ」(三界無安 猶如火宅)という法華経の言葉をしきりに思い出しています。大震災で日本は今、未曾有の危機の中にあります。人はそんな時に真価が表われるといわれていますが、海外メディアは危機に立ち向かう日本人の姿を一斉に報道していました。
それは主に日本人の辛抱強さと秩序に対するものです。他国なら当然起きる店舗等への略奪も放火もない。便乗値上げもない。火事泥的なことは時々あるようだが、多くは整然と列を作って配給を受け、簡単な談合で乏しい食料を公平に分け合っている。日本人が運命を分けあう気力はすばらしいといったものです。
自分の目で自分の顔をみることができないように、外からそんな声があって、いま我々は改めて自分の祖国の姿に気づいているのではないでしょうか。

「はしゃぎて祖国を罵しる声聞こゆ いずこの国に習はんとするや」
これは短歌誌「桃」の主宰者・山川京子氏の歌ですが、我々は永い間、「日本は守るに値しないつまらぬ国だ」と教えられつづけてきたから、なんとなくそのように思ってきておりました。
仏法が人類へ残してくれた釈尊の遺産なら、今の日本人への評価は我々の祖先が残してくれた無形の遺産が花開いたものではないかと思います。先祖に感謝し、災いを福に転ずるべく試練に耐える覚悟を固めていきましょう。
平成23年 3月

「暑さ寒さも彼岸まで」といいますが、寒気も和らいできました。
仏教では、いま私が住んでいるこの世界を此岸といって迷いと苦しみの多い所、その対岸にある彼岸を明るい悟りの世界と考えます。小林一茶に「今日彼岸さとりの種をまこうかな」という句がありますが、彼岸を迎える者の心構えがよく言い表わされています。此岸から彼岸に行こうとすると、渡る橋が必要ですが、その橋を智恵といっています。学校で学ぶのは知識で、これは生きるためのもの。智恵は自分の内心から湧き出してくる目覚めです。

足利源左という念仏者が同行と道を歩いていると急に大雨になりました。すると全身ずぶ濡れになりながら彼は突然、感に耐えぬ面持ちで「親が有り難い」と言いました。不審に思った同行がそのわけを尋ねると「ワシはいま気づいた。こんなとき、親がこの鼻を上向きにして生んでくれていたとしてみよ。濡れるだけではすまんぞ。鼻の穴から雨水がはいって息もできんようになる。濡れるだけで息はできるじゃないか」と言いました。素晴らしい発見ではないでしょうか。当たり前のことが不思議と思えるのが智恵で、それを仏智ともいいます。

先般、新聞の片隅にミャンマー北部で新種の猿が発見されたというニュースがでていました。その猿は獅子鼻で穴が上向きについているため、雨が降るとクシャミを連発。そのため敵に発見されやすく、現在は三百頭前後で絶滅寸前という。
鼻の穴が下を向いていても何の感動もない。それは眠りが深いから。
平成23年 2月

「義に立てば角がたつ、情に棹されば流される、とかくこの世はむつかしい」
と古人は言っているが、理性と感情は昔から仲が悪い。世間はいま大相撲の八百長問題で揺れているが、土俵の不正は断固廃さねばならない。だが、そうは言いながらも、なにか割りきれないものを感じているのは自分一人だけだろうか。

落語に「佐野山」というのがある。江戸の頃、佐野山という小柄の相撲取がいて、大病を患う母の薬代で蓄えを使い果たし、空腹のまま土俵で黒星を重ねていた。
当時、谷風という力量、人格ともにすぐれた横綱がいた。佐野山窮状を知った谷風は自ら佐野山との取組を願いでて、多くの懸賞がかけられた一番で、「孝行に励め」と声をかけて土俵を割った。
もちろんこれはフィクションだが、当時の人がどんな人を理想としていたかがわかる。当時の人は強いだけでは名横綱とは思わなかったのである。

公共事業などで談合が露見することがある。すると一斉に非難の火の手があがるが、あれはあれで皆が共生していくための一面があったのである。
聖徳太子は十七条憲法の第一条で「和するをもって尊しとなす」と定めている。
八百長も談合も和していくための工夫なのだから、欧州流の正義の物差だけでは推し量れないものがある。
「屏風は曲らねば立たない」という諺があるが、正義もそれだけでは正義になりえないということだろう。
平成23年 1月

年末になるとあちこちからカレンダーをもらうが、その中に七福神の図柄のついたものが、いつも一つ二つある。それを見ていて気づくのだが、七福神はみな耳が大きい。仏さまの耳も肩につくほど大きい。それは福耳といって、人の話を素直に聞くことができる耳だということを表している。「忠言耳に逆う」といって、人間の耳は自分に都合の悪いことを聞かされる時は、耳が塞ったような気になるものである。ところが、そんな話の中に大事なものが隠されている場合が多いのだから、それを聞かねば大損をしたことになる。

経営の神様といわれた松下幸之助氏は常々、「自分が今日あるのはさまざまな好条件に恵まれていたからだ」と言っていたが、その好条件の一つに、学歴がないということがあった。松下さんは家庭の事情で小学校中退だったから、自分の周囲の人は自分よりみな高学歴の人ばかりだった。そこで相手と話す時は、この人は自分より知識のある人だから、先ず相手の言うことに耳を傾けるという習慣が身についた。それが結果として今日の自分を造ったと氏はよく言っていた。

  耳は二つ 口一つ 多く聞いて少し言うため

人の話をよく聞いて自分の言葉を惜しむことが、こんな諺になっているが、この平凡な真理をつい忘れがちになるのが人間の悲しみだ。

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