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昭和20年7月、徳島市は爆撃を受け市街地の60%を焼失し、900人が死亡しました。罹災した人達は着のみ着のままで縁を頼って農山村に散って行きました。交通は遮断され、飲まず食わずで歩いて行きました。
その頃私の家は徳島市より20キロほど西の板野郡吉野町にありました。両親と弟妹の五人家族で、私は15才でした。家は貧しい小作農で、食べ物は米3割麦7割にさつまいも、馬鈴薯、とうもろこしなどが主食でした。
空襲の日の昼ごろ、自宅から200メートルくらい北の県道を、焼け出された人達が歩いて行きます。その時、父が母にご飯を炊くように言いました。私には納屋の馬鈴薯を洗うように言い、自分は大きな釜を出し、かまどに火をつけ、馬鈴薯を炊き始めました。ご飯が炊きあがると、母はおむすびを握り始めました。私も手伝いました。私は大釜一杯に炊けた白米のご飯を初めて見ました。一年間で正月とお祭り以外は白米のご飯を食べたことはありません。やがて炊きあがった馬鈴薯と握り飯、それにお水を荷車に積んで県道まで運びました。飲まず食わずで炎天下20キロの道のりを歩いてきた人達にふるまうのです。「皆さん、おむすび1個と馬鈴薯1つ、それに水はいくらでもあります。これを食べて元気をだしてください」
父は呼びかけ、母と私は1個ずづ配りました。お礼の言葉も出ないくらい疲れきった人達は、道端にしゃがみ、頬張ります。私はその時にみた継ぎはぎだらけの父のカッターシャツと、母の洗いさらしの木綿の着物と痩せた肩は、今でも瞼に焼き付いています。
父母は無言で私に人の情けを教えてくれたのです。でもそれからが大変でした。私達は、米が1割麦9割の食事で1日1食となり、馬鈴薯と、とうもろこしの日がしばらく続きました。父は私たちに、「家も家族もなくした人がたくさんいる。家族はみな無事で家もある。しばらくの間辛抱してくれ」と言うのです。5才の妹も黙って食べました。幼くても分かったのでしょう。困った人を助ける両親の思いやりの心が。 |
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以上は「心にしみるいい話」(講談社)に収録されている一文の一節で、筆者は徳島県に在住の牧本美代子さんです。
親が子に残すものにもいろいろあるが、いつまでも色褪せぬものは心の遺産だろう。筆者は文末に「あの日の父母の姿は、みなりは貧しくても私は誰よりも美しく見えました。育ち盛りの子供たちの食糧がなくなることを承知の上で振る舞った白米の握り飯。その行為は、貧乏で嫁入りの箪笥を買って貰えなかった私の心に、どんな高価な物よりも大切な遺産として残してくれました」と記している。決して色褪せることのない遺産を娘に遺していった父母、それを嫁入り道具の箪笥よりも大切な遺産と感じとることのできた娘、親子とも、素晴らしい親子ですね。 |
| (閑院) |
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