平成19年 4月7日 NO.241
春の霞が、朝日をさえぎることがあっても、
阿弥陀さまのお慈悲の光を遮ることはできない。
 宗祖法然上人さまが詠まれた歌です。時に、私の心は、貪り、瞑り、愚凝の霞におおわれ、自ら救いの道を閉ざそうとします。しかし、そのような私であるからこそ、阿弥陀親さまの御目にとまり、お救いの御手にすがれる要因が生じてまいります。
この歌は、奈良・東大寺指図堂の御詠歌となっています。相次ぐ戦乱で古都は焼失し、東大寺大仏殿の再建を願った時の天皇さまは、僧俗ともに大きな影響力を持ちつつあった法然さまにその勧進職(再建責任者)を依頼されました。しかし、法然さまは名利を厭い、同朋の重源さまをご推薦されます。そして自らは陰の力となり、指図堂にて勧進のお手伝いをされたと伝えられています。現在、指図堂には、墨染の衣に金剛草履をはいて勧進されている法然さまの御影があります。
日本人の親子(その40)
 母は文盲でした。無理もありません。明治時代の貧農では女の教育など希有なことだったらしいのです。母の生涯は赤貧の一語に尽きるものでした。そして終生一字も読めず、一字も書けず、大地に還ってしまったのです。でも向学心といえば大袈裟ですが、せめて自分の名前くらい、手紙くらい読み書きしたい願望から、当時小学校へ入学したばかりの私を先生に、五十の手習いそのままに勉強をはじめたのでした。一日の苦労に疲れ果ててた母が、吊りランプの下で私の読み方の本に頭を傾けるのでした。イ、ロ、ハ、ニ、ホ、ヘ、ト。紙上に這わせる節くれ立った指が一字一字をなぞりながら声にする。汗くさい髪を傾け、赤銅色の面を紅潮させながら、一生懸命に挑む母でした。
 でも、その真面目さに反比例して、その覚えの疎いこと。そして忘れ去ることの早いこと。腕白盛りの私には、この母の心を知るにはあまりにも幼なかったのです。
 「めんどうくさいかい」−あまりの疎さに業をにやし、声を荒げる私に母は寂しそうに言うのでした。その面には悲しさがいっぱい漂っていました。その様子に子ども心にもハッとさせられ、渋々とまた続けるのでした。
 でも、覚えるより忘れることの方が多く、それに日中労働をした後のことです。母の手習いは途絶えてしまったのでした。一字も一読も自分のものにせず、終止符を打ってしまったのです。口紅も、クリームの香りも知らず、大地に還った母が、今更ながらなくかしく思い出されるのです。あの暮らしの中で最高の望みだったろうに。なぜもっと、やさしく、ていねいに教えてやれなかったのだろうか。「おっかあ。すまなかったよう。許してくんろなあ」。
老境を迎えた今、あの赤ら顔の母の面とともに少年時代の一齣が慟哭を伴ってよみがえってきます。
  「日夜毎にイロハニホヘト唱えいぬ 母の遺影に香華手向けて」

 上は潮文社「心に残るとっておきの話」に収録されている一文の要約です。筆者は大正12年生、宮城県在住の男性。
 時代と背景は異なっているが、「母の顔とともに少年時代の一齣が慟哭を伴ってよみがえってきます」という一節に共鳴を覚える人は多いにちがいない。
 親は終生、子に対して「まともになってほしい」という願を捨てきれない存在ではないかと思う。そのような意味で親は子に対して終生の教育者であるが、その教育事業は親の死によって完成される。子は親の死によって、今まで知ることのできなかった世界を知るチャンスが与えられる。この男性が母のことを思い出して「すまなかった」と涙するのは、この人が人間として成長せしめられたということではなかろうか。亡き人の遺影に香華を手向けることを回向するというが、生きた人間が回向する前に、死せる親から、「よかれ、よかれ」と回向されている我々である。
(閑院)

(わがんせ)
人は金品を施すことを布施というが、金品ではない布施があり、それを無財施という。そのような無財施が七種あるので「無財の七施」といわれているが、和顔施はその一つである。これは和やかな顔を施すということ。和やかな顔の施しにあうと、金品にも勝る勇気を与えられる。我々が仏に向うと、なにかホッとした気持ちになれるのは、仏がかすかにほほえんでいるからである。それにしても最近はほほえみのない時代である。みな忙しすぎるのだろうか。

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