平成18年 4月8日 NO.235
日本人の親子(その35)
 両親を早く亡くした平太郎は、子供の時から乞食をしたりコソ泥をやりながら生きてきた。年頃になって同じ泥棒仲間の女と夫婦になり、男の子が生れた。その子がもの心つくようになると、今度はその子を見張り役に使って、親子は三人で泥棒家業に精をだしていた。
ある晩、ある家に狙いを定めて泥棒にはいることにした平太郎は子供に
 「人が来たら小声で合図するんだ。あとで旨いものを食わせてやるからな」
と言って中に入って夫婦でゴソゴソやっていると、男の子が圧し殺した声で「お父う、お父う」と呼ぶ。誰か来たのかとびっくりした平太郎は外に出てみたが、誰も来てない。平太郎は子供に、
 「誰も来てないじゃないか。人が来た時だけ呼べばよい。しっかり見張っておけよ」
と言って、再び家の中に入っていった。すると、しばらくしたらまた「お父う、お父う」。あわてて外に飛び出してみたが、誰も来てない。ムッとした平太郎は、
 「誰も来てない時は呼ぶなと言っていたのに、わからないのか」 と叱りつけて、また家の中に入っていった。するとまた「お父う、お父う」。今度こそ間違いなかろうと思って出てみたが、やはり誰も来てない。カッときた平太郎は拳を振りあげて子供の頭に振り降ろそうとした時、子供が言った一言で電気に打たれたような衝撃をうけて身動きできないようになった。
 「お父う、誰も来てねえけど、お月さまが見ているんだ」
 子供のこの一言が契機になって、平太郎一家は泥棒家業から足を洗い、正業に就くようになった。
 子供ごころにも善くないことをしていると知ってビクビクしながら闇の中にひそんでいると、平素なら何でもないお月さまが、なにか怪しい化物からジーッと睨みつけられているような気になって恐ろしくなり、「お月さまが見ている」と言ったのだろう。それを聞いた平太郎は、自分の幼い頃のことを思いだしたのではなかろうか。自分も子供の頃、父母から「お月さまには兎が住んでいて、いつもペッタン、ペッタンとお餅をついている」と聞かされて、それを信じていた頃があった。思えば貧しいが、正直者の父母だった。その父母が今の自分をみて、どう思うだろうか。「可愛い孫まで泥棒をさせているのか」と泣くのではなかろうか。子供の一言から、そんなことが思われて、それが平太郎を変えたのではなかろうか。
 滋賀県に伝わる民話だが、ここには子供を導くための極意が示されているように思う。青少年の万引きがはやって、どの店も頭を痛めているが、「防犯カメラが見ているよ」と教えるより、「お天道さまが見ているよ」と教える方が、はるかによい効き目がある。
 「防犯カメラが・・・」では、更に巧妙な万引き技術を考えさせる結果になってしまう。人が人を導くことはできない。人を導くことができるのは、人間を超えた方だけである。
(閑院)

ある小学生に「運動場」という詩がある。「朝礼のあと石を拾わされると広い広いといって拾っている。遊んでいる時は狭い狭いといって遊んでいる」。運動場は広くも狭くもないのに、自分の都合でそうなる。そうさせている根本原因を仏教では「無明の闇が深いから」と言う。自分は身勝手なものの味方をしていたと気づいたら、その人の「智慧の目」が開いたことになる。智慧と知識は別物である。

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