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母に早死にされた少年は祖父母に養育された。祖父は信仰の厚い人で、少年は「仏さまにお参りしたら母親に会うことができる」と教えられて育った。祖父は口ぐせのように、「食べ物には仏さまがござる」といって、少年があやまってご飯をこぼすと洗って食べることをしつけられた。少年が小学校5年の時、その田舎の小学校に顕微鏡が届き、先生がそれでいろいろなものを拡大して見せてくれた。そこで少年は、いつも祖父が「食べ物には仏さまがござる」というが、ご飯粒にはどんな仏さまがいるのだろうか、それを見たいと思った。そこで昼の弁当の残りのご飯つぶを顕微鏡にかけてのぞいてみたが、なにも見えない。金色に輝く仏さまが見えると思っていたのに、なにも見えないのだ。そこで先生にそのことをたずねたら、先生は大笑いしながら、
「君のおじいさんの言うのは迷信だ。そんなものが食べものの中に入っているわけない」と言いました。
少年は家に帰ると、さっそく祖父のところへ行って、「おじいちゃんの嘘つき」と祖父をせめた。すると祖父は大きな声で、「この罰あたり」といいながら、仏壇の前に行って泣きだした。少年は今もその時の祖父のうしろ姿が忘れられないと言っている。
この時の少年とは元岡崎女子短大で教授をされていた宇野正一さんだが、宇野さんは今にしてこの祖父の教えが身にしみて思われてくる、今の学校教育にいちばん欠けているのは、この祖父が教えてくれたものの見方ではないかと言っている。
人間がものを見る場合、その価値を見るか、それが宿している意味を見るか、二種のものの見方がある。価値でものを見るという見方は、ふつう私たちがものを見ている見方で、それはなんのためにどれだけ役にたつか、いかほどの値段がするのかを問うようなものの見方である。もう一つの意味をみるという見方は、そのものの中に宿されている「わけ」「事柄」を発見し、それについて心に感得する見方を言います。一粒のご飯など価値からみると無に等しいものだが、意味の立場から見ると無限の宝物になる。龍樹菩薩に、
「三度のご飯は仏肉をむしりとって食べているようなもの、水は仏血を絞りとって飲んでいるようなもの、衣服は仏皮を剥ぎとって着ているようなもの、家の柱は仏骨を削っているようなもの」という言葉があるが、これは意味の立場からみたものの見方だろう。黄金を山と積んでも人間の手だけでは一粒の米すら作りだせない事実を考えたら、こんなものの見方になる。
「もったいない」は「物体無い」の意で、その物体を無いがしろにすることである。そうすることを仏教では「殺生する」と言って戒めている。物心一如といって物と心は別物ではないから、物を殺生していると人の命まで粗末にされるようになる。 |
| (住職) |
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