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少女は父が大嫌いだった。いつも威張っていて母を小馬鹿にしている父。娘の自分にとってもただこわいだけの父。母子が貧しい食事をしていても、横で刺身で晩酌をやっていて、それを当たり前のように思っている父。そんな父に少女は反感をいだきつづけてきた。
そんな少女が、ある日、思いがけない父の姿をみて、父に対する思いが変わった。それはお婆ちゃんが亡くなった通夜の晩のことである。会社のえらいさんが弔問にきてくれた。すると父は、はじかれたように立ち上がって土下座をせんばかりに礼を言っているのだ。そして、えらいさんが帰って姿が見えなくなった後まで、外の闇に向って何度も最敬礼をしている。それは今まで見たことのない、卑屈とも思える父の姿だったが、その時、少女は父のことが理解できたような気になった。
「お父さんは、私達を養ってくれるために、私の知らないところで苦労をしていたのだ。お母さんはそれを知っているから馬鹿にされてもやさしくしてあげていたのだ。私も父をゆるして、やさしくしてあげなければ・・・」
と思ったのだった。この少女とは、後の作家となった故・向田邦子さんである。
先日、新聞に、ある教育機関の調査結果として、現代の中学生には「反抗期」がきえているいう報告がでていて、しばらく考えこんでしまった。自分の親を、やさしい親、ものわかりのよい親と肯定的にとらえ、家庭に満足している子供たちを悪く捉えることはない。だが、親への反抗は自立するうえで不可欠な過程だとも言われている。すると反抗期がないということは、それはそれなりに心配なことなのかもしれない。
津軽の大地主で、父は地方の有力政治家という恵まれた家庭に生まれたことに劣等感をいだきつづけた作家に太宰治がいる。彼は「家庭の幸福は諸悪の根源だ」と言っているが、これは彼一流の逆説としても、しかし、その中にも一分の真実はありそうだ。彼の文学を今だに愛する人が多いのは、そこに劣等感と反抗心が息づいているからと言われている。思えばヘルマン・ヘッセの「車輪の下」も、トーマス・マンの「魔の山」も、親への反抗心の炎の中から生れた名作である。向田さんの作品が愛されるのも、父への反抗体験の中で養われた深い人間観があるからだろう。
親子の仲が良いことは誰しも望むところだが、その仲の良さが、親が子に対してやさしく、ものわかりがよい点だけで保たれているとしたら、これも問題だ。スーパーの野菜は見かけはよいが香気がないのは、あまりにもよい環境の中で育てられたからである。
友だちのような親子関係、友だちのような師弟関係を進歩的であると自慢する人がいるが、本当に自慢していいことかどうか、大いに疑問に思うのだが・・・。 |
| (住職) |
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