平成16年9月1日 NO.224
日本人の親子(その23)
 アテネ五輪女子マラソンの野口みずきの力走ぶりには日本中が沸いたが、戦後の日本人でマラソンで表彰台に立ったのは円谷つぶらや幸吉が初めてだった。そのことについては沢木耕太郎「長距離ランナーの遺書」(文春文庫)に詳しいが、幸吉は福島県の田舎の農業・円谷幸七、ミツ夫婦の七人兄弟の末子として生れた。
 高校卒業後、自衛隊に入って、昭和36年の青東駅伝(青森〜東京間)で三つの区間を走り、計15人を抜く活躍や、38年のニュージーランド遠征で2万メートルの世界新記録を出したり、東京五輪では銅メダルに輝いて日本のホープとして注目された。しかし次のメキシコ五輪では、腰痛の持病で不振に悩み、43年1月、カミソリで頚動脈を切って自殺した。
 厳しい戦いの中では、誰かに期待されている、誰かのためにという強い責任感がなければ戦えないと言われているが、親思いの幸吉にとって戦いは常に両親の笑顔を見たいためであったようだ。その両親について兄の敏雄は、「父は厳しかったが、一本筋の通った人だった。一方、母は、やさしく、仏さまのようで、声を荒げて怒ったことなど一度もない人だった」と述べている。どうやら厳父、慈母という日本の伝統的な両親のもとで育てられたようだ。幸七は当初、わが子のマラソンに反対していたが、幸吉の意志が固いとみるや、「怪我をすると選手として責任を果たせないから身体には気をつけるように」といって励ましたという。幸吉の自殺の背景には、日本代表としての責任を果し、両親の安堵する顔が見たかったという思いがあったからだと言われている。

幸吉の遺書は彼の純な性格があふれたもので、家族全員に対する感謝の言葉で始まっている。
「父上様、母上様、正月のとろろ、美味しゅうございました。干柿も餅も美味しゅうございました。敏雄兄、姉上様、ブドウ酒、リンゴ美味しゅうございました。巖兄、姉上様、しそめし、南蛮漬、美味しゅうございました。喜久造兄、姉上様、ブドウ酒、養命酒、美味しゅうございました。又いつも洗濯してくれて有難うございました。・・・・・・・・・・」
というように、肉親から馳走を受けた礼で始っている。これについて作家。川端康成は
「美味しゅうございました。」という、ありきたりの言葉がじつに純ないのちを生きていたことを感じさせる」と評論している。そして次には、
「父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れて走れません。何卒お許し下さい。気が休まることなく、ご苦労ご心配をおかけして申し訳ありません。幸吉は父母様の側で暮らしとうございました。・・・・・」
そして、自衛隊の上官に対しては「ご期待に添えず相済みません」。
 両親は「一緒に暮らしたかった」という幸吉の気持を汲んで、せめて位牌と共に過してやろうと小さな「幸吉記念堂」を建てて菩提を弔って一生を終った。
円谷選手にもう少し責任感が稀薄であったら死ぬこともなかったろうという見方もあるが、人間が涙するのは、生命よりも大切なものに向って生きようとする人間の真摯な姿を発見した時である。
(住職)

 今では「水泳が達者だ」というように、ものごとの上手なことを表現する言葉になっているが、本当は、その道の奥義を極め尽くした人だけに使われる言葉である。本来は仏教語で、各宗の宗祖のように、真実を究めた人、仏道に深く達した人のことを言った。
 聖徳太子の「十七条憲法」に「達者少なし」とあるのは、ものごとの道理を究め尽くした人は少ないという意味。また健康なことを達者とも言うが、これは仏教的な意味とは無関係。

[HOME]