平成15年11月9日 NO.218
去る10月14日、浄土宗大本山の一つである鎌倉の光明寺さまに久留米の大本山善導寺布教師の一員として参拝してきました。光明寺は「お十夜法要」発祥の地。本家本元の十夜法要に参列でき、よい刺激を受けることができました。来年は、ここ数年お休みしている「蓮華寺ふれあい旅行」で鎌倉を訪れるのもよいなと思いながら、光明寺を後にしました。
(副住職)

浄土宗三祖 良忠上人

賑わいの門前

溢れんばかりの参拝者


満員電車の人ごみの中に乳児を抱いて立っている婦人の姿が見えた。側にいた女子高生が、座っている男性に婦人に席を譲るようお願いしたが、男は狸寝入りをした。次の駅で婦人と女子高生は下車したが、それを確認するかのように男はじっと外を見ていた。
私達の中に、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏といった、善悪両世界の心が共に住んでいる。(一心十界)人は車中の両者どちらの立場にもなれる機根を皆等しく持っている。心の中に地獄の鬼が住んでいることを卑下するより、仏さまが住んでいることを喜び「正しくありたい」と心がける生活を送りたいものである。
日本人の親子 (その17)
  
 「四十七士」の一人として吉良の屋敷に討ち入り、目的を果たした後、父・大石良雄と共に切腹して果てた多いし主税が、まだ少年であった頃の話である。
 ある時、近所の少年たちと庭先で遊んでいると、松の木に蛇がはい登っているのが目についた。主税がすぐ弓矢を取ってきて蛇をねらって矢を放つと、見事に頭を躬抜き、松の木に射つけてしまった。つづいて二の矢で尾を、三の矢で腹を射ぬいたので、そばにいた少年たちは手をたたいてその腕前をほめたたえた。ほめられた主税は、いかにも得意そうに笑っている。
 その様子を見ていた父は、こわい顔をして主税を呼びつけると、
「まともな人間になろうとする者は、そんなことをするものではない。あまつさえ罪もないものを射殺したりするなど、武士のすることではない。お前はこれから華岳寺へいってこのことを話し、和尚さんの教えを受けてくるがよい」
といい、それから十日間、主税がそばに近よることを許さなかったという。
 いい話ではなかろうか。
 父は主税の小手先の技術の見事さを喜ばず、罪なき者を平気で殺す精神の軽薄さを咎めたのである。
 何ごとによらず、その人の技術がすぐれていると、我々の目は、その技術だけに注がれがちである。だがこの父は、その技術を左右する目にみえない精神の重さというものを知っていたのである。
 相対性理論のアインシュタイン博士は、その著「私の世界観」の中で「科学のない宗教は盲人で、宗教のない科学は狂人である」と述べている。今、この狂人で、精神のない技術だけの発達が、未来を危うくしている。
 ところで、華岳寺の和尚は主税に「生き物を殺してはいけないよ」という不殺生滅を教えたと思われるが、それはただ単に生き物を殺すなという意味だけではない。
「粒々これ仏物、滴々これ法身」という聖書の言葉であるが、一粒の米、一滴の水も、みな仏さまのもので、自分の所有というものは何一つないのだという道理がわかって、だから自分のものであっても自分が気ままに使ってはならぬという心構えができることが、真実に殺生をしない人になるということである。
小布こぎぬひとつ粗末にせでしまいありし
         母の手箱を涙してみる」
いつぞや読売歌壇に入選していたある婦人の歌です。物の豊かさになれ、物を粗末にする娘を悲しんだ母が、そっと保存していた布切れが母の死後発見されて、母の無言の教えに気づいて思わず涙が流れたという歌でしょうか。
十日間も子が近づくことを許さなかった父には、この歌のように、不殺生戒を子に守らせたいという祈りがあったのだと思います。
(住職

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