お念仏から始まる幸せ(その4) |
未曾有の災害と言われた東日本大震災(平成23年)の悪夢から約10年後の師走、私共は、新型コロナウイルスの不安の中に置かれています。徳仁天皇即位により迎えた令和の新時代、オリンピック開催に沸き立つ私共は、突如、苦悩を強いられました。
現在、改元は天皇即位の折と定められていますが、江戸時代以前は、時流の変革を望む詔によって、改元がなされたようです。法然上人ご在世の平安末期から鎌倉初期には、なんと改元が23度も行われています。その内、天皇の即位による改元が8回、儀礼による改元が2回、災異改元が13回でした、災異には、重複も含めて、地震が2回、水災が1回、火災が2回、兵革(戦乱)が3回、疫病が7回、飢饉が1回とあります。疫病と天災による改元が際立っています。そして約850年後の現在、平安の世と同じような災異が世界を席巻しています。確かに医科学や経済の進歩で、被災の程度には違いはありますが、人心が受ける恐怖や不安は、今も昔も同じです。そんな苦しみから人々を救い出すことが、法然上人の願いでもあり苦悩でした。そして、中国は唐の時代の高僧、善導大師の霊文によって、法然上人の迷いが晴れ、お念仏の一行をもって、今も未来も「幸せ」になれることを確信されました。時に承安5年(1175)、法然上人43歳の春のことでした。
数あるお釈迦様の説かれた「幸せの法」の中で、お念仏を称えるという行為は地味なものです。しかし、その小さな行為の繰り返しが、大きな結果を生むことになるのです。ちょうど、水面に出来た小さな波紋が、外に広がれば広がるほど大きくなっていくようなものです。小さくて大きい、大きくて小さい、そんな有難く容易に実行できる教えが「お念仏」なのです。しかし、その易しい教えすら実行出来ない私は、常に懺悔するしかありません。
師父を浄土に送った令和2年、そんな不十分な私の心に「感恩の歌」が響きます。この歌は、作者が母親を亡くした折に詠まれたもので、「父母恩重経」に深く影響を受けています。下蘭に紹介します。
恵まるる ことのみ多く酬ゆるに 力たらざる おのれを恥ずる |
 |
|
感恩の歌 (竹内浦次 作)
あはれ はらから心せよ 山より高き父の恩
海よりふかき母の恩 知るこそ道のはじめなれ
児(こ)を守る母のまめやかに 我が懐中(ふところ)を寝床とし
かよわき腕をまくらとし 骨身を削るあはれさよ
美しかりし若妻も 幼児(おさなご)一人そだつれば
花の顔(かんばせ)いつしかに 衰え行くこそかなしけれ
身を切る如き雪の夜も 骨さす霜のあかつきも
乾けるところに子を廻し 濡れたるところに己れ伏す
幼きものの がんぜなく 懐中汚し背を濡らす
不浄を厭(いと)ふ色もなく 洗ふも日々に幾度ぞや
己れは寒さに凍えつつ 着たるを脱ぎて子を包み
甘きは吐きて子に與(あた)へ 苦きは自ら食ふなり
幼児乳(ちち)をふくむこと 百八十斛(こく)を越すとかや
まことに父母の恵こそ 天の極まりなきが如し
父母は我子の為ならば 悪業をつくり罪かさね
よしや悪趣に落つるとも 少しの悔いも無きぞかし
若し子遠く行くあらば 帰りてその面(おも)見るまでは
出でても入りて子を憶(おも)ひ 寝ても覚めても子を念ふ
髪くしけづり顔ぬぐひ 衣を求め帯を買ひ
美(うるわ)しきは皆子に與へ 父母は古きを選むなり
己れ生(しょう)あるその内は 子の身に代わらんことを思ひ
己れ死に行くその後は 子の身を護らんことを願ふ
よる年波の重りて いつか頭のしも白く
衰へませる父母(ちちはは)を 仰げば落つる涙かな
ああ ありがたき父の恩 子は如何(いか)にして酬ゆべき
ああ ありがたき母の恩 子は如何にして報ずべき |
|
|