| お念仏から始まる幸せ(その3) |

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前回に引き続き、「何故、念仏で救われていくのか」「何故、念仏でなければならないのか」について考察していきます。(住職) |
浄土宗を開かれた法然上人の詠まれた歌に
池の水 人の心に似たりけり にごりすむこと さだめなければ
とあります。弱点(煩悩)のある人の心は、池の水面のように定まり難く、時には明るく、時には暗いものなのだというお諭しです。「山の清水」のような気持ちになって、明るく正しく和やかであることが稀な私です。欲と怒りにまみれ、物事に素直になれないネガティブな私です。そんな私に対して、浄らかになれない時は無理をしなくてもよい。今のお前のままで「ナムアミダブツ」ととなえれば良いと、阿弥陀さまはお慈悲をかけてくださいました。その親心を頼りに「ナムアミダブツ」ととなえるだけで、仏さまのお慈悲の功徳を受けて、変わらぬままに何かが変わってまいります。
過日、京都で地下鉄に乗りました。夕方の帰宅ラッシュのため、私の乗った車両は満員でした。多くの方が通路に立っています。そんな中、青年が人生の大先輩に席を譲りました。譲ってもらった女性は「おおきに」と喜んで座り、言われた青年は「どういたしまして」と笑顔でそれに答え、その様子を見ていた私は心が明るくなりました。一人の青年の善事が周りを幸せにしたのですが、車内には、青年の様な行動を起こせなかった人が多数いました。彼女に声をかける勇気が持てなかった人。会話やスマホいじりに興じて、彼女に気付かなかった人。我が身可愛さのために、気付かないふりをして「狸寝入り」をしてしまった人。皆、先天的に「良心」というものが与えられていて、出来ればあの青年の様でありたいと、心のどこかで願っています。しかし私は、時として明るく、時として暗い立場のものなので、それが上手に出来ません。そこを深く自覚をして、素直に仏さまにすがり、お念仏をとなえるのです。お念仏をとなえている私は、我が身の事もままならない、弱く愚かな立場の者ですが、その愚かな私がとなえているお念仏は、阿弥陀さまによって、すべての仏法の功徳が含められた「最も勝れた」仏道修行なのです。ですから、お念仏をとなえながら何故か人を殴りにくいし、お念仏をとなえながら何故か万引きはしにくいのです。心の暗い私が明るくなったわけではありません。邪になりがちな私が正しくなったわけでもありません。しかし、そんな私がお念仏をとなえることによって、変わらぬままに何かが変えられているのです。
コロナウイルス感染症の影響で、東京オリンピックが来夏に延期されました。そのオリンピックの聖火の種火は、ギリシャのオリンピアで日光により採火されるそうです。勿論、太陽の光だけでは点火することは難しいので、凹面鏡を用いて日光を集め、採火されるそうです。同じように、阿弥陀さまの万物を救いたいというお慈悲の光は、太陽の光の如く全世界を照らして下さっていますが、道理の暗い私の心に、信仰の火をともすことは容易なことではありません。お慈悲の光を集める行為、即ちお念仏をとなえ続けるという仏道行為によって、火で焼かれても焼けず、水に流されても流れないような信仰の火が、私どもの心にともされます。私どもは、有り難いことに人間に生まれ、仏教に逢い、お念仏の教えを受け取ることが出来ています。すでにこの世も次の世も幸せに成るための準備は、阿弥陀さまによって整えられています。あとは私どもが、その親心を深く信じ、阿弥陀さまを慕い、お念仏に励めるかどうかです。
私どもが日々求めている「健康・長寿・財産」が満たされることも幸せの形ですが、どこか不安な要素があります。しかし、お念仏をとなえることで与えられる幸せには、それがありません。この世も次の世も「仏さまと共にある」との信心は、いつでもどこでも私どもを安心させ、幸せにしてくれます。そんな「お念仏からはじまる幸せ」の縁に連なっている我が身を喜び、共に念仏生活を進めて参りましょう。 合掌 |
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