平成27年12月 NO.283
わたしたちのねがい(その3)
 お寺で開催している子ども会では、お釈迦さまの教えに基づいた言葉を経本とし、
「わたしたちのねがい」と題して、おつとめをしています。
 その一節に「いのちをたいせつにする人間となろう」とあります。私共は、自らの命をつなぐために、他の多くの命を犠牲にしなければなりません。万物は、仏さまから分けていただいた尊い命ですから、人間だからといって、他の命を自由にうばって良いわけではありません。ましてや、自らの命を粗末にすることなど、肯定する余地もないのですが、他人事ではありませんね。縁が整えば、いつでもそのような残念な行為を望む可能性を、私共は秘めているのです。そんな私に仏さまが語りかけます。

 いのちを たいせつにする人間となろう
 たった ひとつの とおといいのち
 ほとけさまは いのちのあらわれ
 草も木も 鳥も魚も みんな いのちを
 たいせつにして いきている
 きびしい しぜんのなかに いきぬく
 いのち ちからづよい いのち 
 ふしぎないのち このいのちのとおとさを ほとけさまが おしえてくださる
 いのちを たいせつにする人間となろう

 元禄15年12月14日(1703)、元赤穂藩士であった「四十七士」は、君主:浅野長矩の仇、吉良義央の屋敷に討ち入りしました。その赤穂浪士の指導者・大石内蔵助の息子・大石主税が、まだ少年であった頃の話です。
ある時、近所の少年たちと庭先で遊んでいると、松の木に蛇がはい上がっているのが目につきました。そこで主税は、得意の弓を取って蛇に向かって矢を放ちました。一の矢で頭を躬抜き、二の矢で尾を躬抜き、三の矢で腹を躬抜いたのです。そばにいた少年たちは、手をたたいて彼の腕前をほめたたえました。ほめられた彼は、いかにも得意そうに笑っています。その様子を見ていた父・内蔵助は、こわい顔をして息子を呼びつけると、「まともな人間になろうとする者は、そんなことをするものではない。ましてや罪もないものを殺すことは、武士のすることではない。お前はこれからお寺(大石家菩提寺の華岳寺)へ行って、このことを和尚さんに話し、教えを受けてくるがよい」と言い付け、それから十日間、息子がそばに近よることを許さなかったと言います。父は息子の小手先の技術の見事さを喜ばず、罪なき者を平気で殺す精神の軽薄さをとがめたのです。我々の目は、その人の技術がすぐれていると、その技術だけに注目しがちですが、内蔵助は、その技術を左右する、目にみえない精神の重要性を知っていたのです。
 浄土教の祖である龍樹菩薩は、「食事は仏さまの肉をむしりとって食べているようなもの、飲水は仏さまの血を絞りとって飲んでいるようなもの、衣服は仏さまの皮を剥ぎとって着ているようなもの、住居は仏さまの骨を削って住んでいるようなもの」と申しています。また、宮城県の念仏おばあちゃん、島本邦子さんの歌にも同じ心を感じます。

 蟹を食べたら
 蟹の一生をもらったことになる
 芋を食べたら
 芋の一生をもらったことになる
 そう思ったら念仏がこぼれて止まぬ

 人間の力だけでは一粒の米すら作り出すことの出来ない事実を、素直に認める時に、このような尊い見方になるのです。自分のものであっても、自分が気ままに使ってはならない、という心構えができることが、真実に殺生をしない人になるということなのです。
いつぞや読売歌壇に入選していた歌に
 小布(こぎぬ)ひとつ 粗末にせで 蔵(しま)いあり 
 母の手箱を 涙してみる

とありました。亡くなった母の部屋で、どこまでも物の命を大切にしようとする、母の無言の教えに気付き、思わず涙がこぼれたという歌でしょう。
 物と心は別物ではありません。物を粗末にしていると命も粗末するようになりますし、逆に物を大切にしていますと、命を大切に出来る人となれるのです。そんな「仏さまのおしえ」に従い、いのちを大切にする人間になれるよう、浄土への往生を願い、阿弥陀さまを慕い、お念仏を申してまいりましょう。
(住職)

[HOME]