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お釈迦さまの教えに基づいた読本に、「わたしたちのねがい」と題した言葉があります。
その一節に「よろこんで あたえる人間となろう」とあります。自分の持っているものを他に渡す行為を仏教では「布施行」といい、仏道の大切な修行の柱としています。「布施行」とは、ただ渡せばよいという行ではありません。自分のためにと、よろこんで渡していく行為なのです。他に渡すことの出来るものはいろいろあります。自らの財産を他に施すことや、優しい眼差しで笑顔で他に接することや、相手を思いやり言葉を選んで声をかけていくことや、自らが体を動かして精一杯の協力をすることなど、生活の全ての行為が「布施行」につながると言っても過言ではありません。その全ての行為に対して、見返りは求めず、自らのためによろこんで取り組んでゆくことが「布施行」なのです。元来、自分の物に執着することが人間の本能ですから、「布施行」とは大変な難行なのです。
三百年の太平の世を築いた、徳川家康公の重臣で、四天王の一人と呼ばれた本多忠勝は、家老に「忠政は長男であるから跡目相続のことは、公儀の計らい通りにすればよい。ただ、自分が貯えてきた一万五千両は、何の身分の保障もない次男の忠朝に与えるように」との遺言を残して死んだそうです。家老は君主の命に従い、その遺言を忠政に示すと、彼は激怒して言いました。
「父上の跡目をつぐのは長男の自分に決っている。なぜそれを公儀の計らいを受けなければならないのか。父の財産はすべて自分のものなのに、一万五千両もの大金を忠朝に与えるとは、もってのほかである。たとえ父の遺言といえども、非理は非理。余はこれを用いぬぞ」と言ってききません。家老は困りはてて忠朝のところへ行き、遺言を示して事情を説明しました。すると彼は、「兄の言う通りだ。自分は家臣が少ないので出費も少なくてすむ。だが兄は多数の家臣を養い、領民のために莫大な金がいるはずだ。金はすべて兄上に渡してくれ。もともと私は次男なのだから、財産を受ける資格はないのだ。」と、淡々とこれを断り、兄に全ての相続を譲ったのです。これを伝えきいた忠政は、弟の清く正直な態度に深く恥じ入ったということです。
親は力のある子を頼もしく思い、非力な子を不憫に思う傾向にあります。これはいつの世にも共通した親心であり、その親心は仏さまの心と似ています。法然上人が「善人なおもて往生す、いはんや悪人をや」と申されたことは、このことなのです。その仏さまのような親心が、父:忠勝に不公平な遺言を書かせ、その親心がわからない長男:忠政は、これを理不尽と激怒したのです。これは現代でも、いたるところで見聞される問題です。血肉を分けた兄弟が、遺産相続の問題で仇敵のようににらみ合うわけです。悲しい人間の性ですね。人間が金銭に縛られた日暮らしをしているということは否めませんが、そのような日暮らしが、いいことではないことを、皆、知っているのです。だから金銭を盗んだり、汚職をして私腹を肥したり、金銭の問題で人にこびへつらう人を見聞する時に、悲しい気持ちになるのです。しかし、誠実に省みると、五十歩百歩のことを自分もしていることに気付き、自分で自分がいやになるのですが、その反面、物に執着することは、人間の本能だから仕方ないのだ、自分だけではない、皆そうやっているのだと、自分で自分をなぐさめているのです。そんな私に仏さまが語りかけます。
よろこんで あたえる人間となろう
物があればものを 力があれちからを
知識があれば知識を みんなにあたえよう
なければ 自分の中に 育ててあたえよう
花は 美しさをおしまず
小鳥は たのしい歌をおしまない
だれにでもあたえている
あたえるとき 人は ゆたかになり
おしむとき いのちは まずしくなる
よろこんで あたえる人間となろう
仏教徒の多くが、お仏壇に「お水」を供えます。その行為は、ひとへに仏祖報恩のためのものでありますが、一方では、自らのためにやっている行為なのです。わが国は水が豊富なので、一杯の水を他人に施しても、見返りを求める心は起こりにくいもので、無意識に「布施行」ができているのです。そのような「布施の心」で、今日一日が過ごせますようにと願って、お仏壇に「お水」を供えるのです。
「仏さまのおしえ」に従い、よろこんであたえる人間になれるよう、浄土への往生を願い、阿弥陀さまを慕い、お念仏を申してまいりましょう。 |
| (住職) |
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