| 平成27年7月8日 | NO.280 |
| 人間にも健康人と病人があるように、信仰にも健全信仰と不健全信仰があるように思う。神仏の御前にて「どうぞ願いが叶いますように」と祈りたいのは人情であるが、科学的な結果を宗教的な行為に求めることには無理があり、不健全な信仰であると感じる。では、健全な信仰とはどのようなものであろうか。 ある通夜での出来事である。不幸の家は、町で一番の商売を営んでいる家で、父親は隠居して二人の息子に会社を任せていた。この家は商売も熱心であったが、信仰にも熱心であった。非常に堅い浄土宗の信者の一家で、家内中が木魚をたたいて念仏するという家風の家であった。ところが長男が乗り合わせた船で海難事故にあい、不慮の死をとげた。兄の跡を継いだ次男も商売に奮闘するが、その次男も間もなく急病で他界をした。後に残されたのは年寄りと妻子ばかり。一家は只今没落していると言う。 その次男の通夜の席で、弔問者の一人が隠居に向かって、「あなたのような信心者が、このような不幸にあうとは、その信心や信仰もあまりあてになりませんな」と言ったと言う。ひどいお悔やみの言葉である。しかし、その時の隠居の返答が見事なもので、同席していた僧侶をうならせた。 「今日は、一日のお疲れのところお参り有難うございます。二人の息子を続けて亡くし、心が引き裂かれそうです。しかし、あなたが申すような目的で私は信仰しているわけではありません。世の中は矛盾の連続です。どんな矛盾に出会おうとも、そこにみ仏のお慈悲がいただけるように、私はお念仏信仰をしております。」 この話を伝え聞いた時、法然上人御法語の一節を思い出した。 「死生ともにわずらいなし」である。西方浄土への往生を願い、阿弥陀さまを慕い、お念仏を称える者は、生きている時も死んでから後も何も心配いらないのだとお示しである。人は不幸に陥った時、真価が問われるというが、この隠居の信仰こそ健全なものであると感銘した。 教導師であった大本山善導寺の一田善壽法主は、刑務所で法要や五重相伝を開催した方。その法主に死刑囚からの遺書が届いた。 「五重相伝を全部授かることが出来ず逝くことが、とても残念でございます。いよいよ現世での時間も迫り来ましたが、どうかお十夜法要の時には、浄土に生まれてゐます私まで聞こえるように鉦をたゝいて迎えて下さるようお願い申し上げます。」 彼の全てが悪ではなく、縁によって罪人となり、縁によって往生人になっていくのである。私も同じ立場であり、決して他人事ではない。世間では、百円盗んだ罪と、一億円盗んだ罪への刑の処遇は違うが、宗教的な立場から見れば、どちらも同じ罪である。多くの生物を犠牲にして、我が命をつないでいることを知りながら、口から出るのは感謝の言葉ではなく、「これは嫌い、あれが欲しい」との愚痴ばかり。宗教的に見れば、彼も私も同じ罪人なのである。そんな自分勝手な愚痴の私でも「救いたい」とお慈悲をかけて下さる仏さまが阿弥陀さまであり、その阿弥陀さまに救われていく仏道修行が、口称の念仏である。 「仏は一切衆生を哀れんで善人も悪人もお救いになりますが、善人を見ては喜び、悪人を見ては悲しまれるのです」との阿弥陀さまの親心を忘れずに、共にお念仏精進いたしましょう。 |
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| (住職) | ||