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彼は昭和十八年沖縄に生れた。十四才の時ハンセン病を発症。四方を海に囲まれた診療所に入って義務教育を受けることになった。翌年、彼の書いた作文がコンクールに入選し、それが文豪・川端康成の目に留った。川端が施設にたずねてきた。そして少年の手をとり、涙を浮べて言った。「たくさん書きなさい。自分の中にいっぱい蓄えなさい」。そして別れ際に「何か欲しいものがありますか」と川端は聞いた。少年は「本が欲しい」と答えた。間もなく本がいっぱい入った段ボールがいくつも届いた。
施設の子供たちは中学を卒業すると施設内の作業所で働くことになる。そんなある日、岡山県にハンセン病患者のための公立高校があることを知る。高校進学の夢がふくらんだ。そして脱走を決意した。慰問に訪れた父に高校進学の話をした。父は子の夢を叶えてやりたいと思った。当時、沖縄はアメリカの統治下にあった。父は知り合いのツテでパスポートを取得。脱走後の港までのルートも決めた。またハンセン病患者なので鹿児島に着いたら、とりあえず鹿児島のハンセン病療養所に入る手配もした。
脱走劇はまるで映画のようだった。そして鹿児島の施設の中学生として岡山の高校を受験。その高校で一人の外科医と運命的な出会いをした。その医者の治療を受け、彼はハンセン病を克服したのである。
社会に復帰した彼は診療所の看護師だった女性と結婚し、二児の父親になった。しかし元ハンセン病患者に対する社会の偏見と差別は容赦なく彼の家族を引き裂いた。彼は二人の子供の将来を考え、離婚して一人で家を出ていく決心をした。
家を出ていく日、彼は八才の長男と口論になった。長男は「僕は父さんについていく」といってきかなかった。「駄目だ」。「どうして。ぼくがまだ小さいからか」。「そうだ」。「じゃあ、何年経ったら父さんの所に行っていいの」。「十年だ」、彼はとっさにこう答えた。
十年が過ぎた。一人暮らしの彼のアパートに十八才になった息子から電話があった。「約束の十年が経ったけど、会いに行ってもいいですか」。彼は驚いた。「あいつ、まだ覚えていたのか」。数日後、息子は東京都の地図を片手に彼のアパートを訪ねてきた。『多摩地区』のページだけがボロボロになっていた。十年間、ずっと父親の住む多摩地区のページを眺めていたのだという。
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「彼」とは『花に逢はん』の著者、伊波敏男さんである。平成八年、「らい予防法」は廃止された。患者にとってここに至るまでの苦悩は想像にあまりある。人と人との絆が薄れてゆくかに感じられる昨今、彼と息子との出会いは皆の胸に希望の火を灯してくれる。偏見と差別は筆舌に尽くしがたいが、人間にはそれを超える力があることを教えてくれる。 |
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| (閑院) |
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