平成25年7月12日 NO.273
日本人の親子(その69)
 少女は12歳のとき圧迫性脊髄炎で下半身麻痺になった。絶望のあまり、母が口に入れてくれる食物を母の顔に向けて吐きつけていた。少女の家は農家だった。農繁期になると昼間母は付き添いに来られない日が多くなった。その間に少女は病室に持ってこられた入院費の請求書をみて、その額の大きさに心が痛んだ。少女は医師に退院させてほしいと願いでた。「歩けなくても笑顔はつくれる」と、少女は退院の日まで笑顔の練習をした。家に帰ると父に抱かれて中に入った。すると思いもしない光景がそこにあった。近所の人たちが一品もちよって退院祝いをするために集まってくれていたのだ。笑顔の練習をしていたのに、涙が溢れて止まらなかった。それから十六歳まで家から出ることはなかった。その間に知ったことが二つあった。
 一つは親の愛である。父は何度も言ってくれた。「障害があろうとなかろうと、おまえは俺の娘ばい。その体で生きろ。障害は悪でも恥でもなか。胸を張って生きろ」。
 二つめは家の田畑が売られていたことだった。入院費のためである。それは親戚の人の口から聞かされた。それを知って、「私、生きていいのかな」と思い悩んだ。でも死ぬことは考えられなかった。父母の悲しむ顔が目に浮かんだからだ。少女は思った。いつの日か親から「お前が娘で良かったよ」と言われるような娘になりたい。だから「動かない体でもこんなに幸せになれるんだよ」と言えるような生き方をしよう。
「できたら世界一ステキな障害者になりたい」。

 これは「みやざき中央新聞に掲載された記事の要約である。少女とは昭和22年熊本県阿蘇郡白水村産まれ野尻千穂子さん。野尻さんは後に両足に障害をもつ男性と結婚し一女を授かる。その時、医者からは、「麻痺しているお腹のなかで正常に赤ちゃんが育つ保障はできない」と中絶を勧められた。最愛の父からは、「父ちゃんは千穂が大事だ。赤ちゃんは生むな」と言われて泣いた。その彼女に最後の決断をさせたのは、夫の一言だった。
 「障害のある子が生まれたら、『仲間が一人増えた』と思って一緒に育てていこう」
娘が11歳を迎えた誕生日、千穂さんは今までのことを娘に全部話して聞かせた。すると娘が思いがけないことを言った。
 「お父さんお母さん、私はどこの家よりこの家に生れて来れてよかった」
 千穂さんは嬉しくて、その夜は眠れなかった。娘さんは成人して今は看護師として活躍している。千穂さんは今、熊本県いのちの懇談会の代表として、身障者のために活躍している。
 身障者でも「世界一の障害者になろう」という発想が素晴らしい。禅語に「随所に主となれば、立つ所みな真なり」とある。随所に主となるとはどんな時でも主人公という意味だが、これがまさに主人公たらんとする思いだろう。念仏でいえば、往生人になるということだと思います。
(閑院)

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