平成25年7月12日 NO.272
日本人の親子(その68)
 お茶の家元・京都裏千家の千宗室氏は、特攻隊員として鹿児島の鹿屋飛行場で待機していたが、その氏にいよいよ出撃命令が下って沖縄へ向って飛び立つことになった。燃料は片道のガソリンだけ。特攻隊員に帰りの燃料はいらないのです。だが氏は、飛行機が途中で故障して引き返してきた。これで命が助かったのである。
 戦後、家元が当時のことを振り返って俳優の西村晃氏とテレビで対談していた。西村氏は水戸黄門の連続ドラマで黄門さまをやっていた人で、氏も家元と同じように片道ガソリンで飛び立つ運命にあった人です。
 家元が言っていました。明日はいよいよ出撃という前夜は、宿舎の空気はシーンとしていて、もう表現のしようもないような雰囲気だった。黙って壁に向う者、あちこちへ遺書を書く者、遺歌を作っている者もいるという有様で、家元はその空気に堪えられなくなって滑走路に飛び出していった。そして、「ここなら誰にも聞こえんだろう」と思うところに行って、京都の方を向いて「お母ちゃーん」と呼んだ。すると、今まで溜まっていた胸の支えがすっとおさまって、「あゝ、これで明日は死んでいける、思い残すことなく死んでいける」と心に決着がついた。その家元と同じように同僚が三々五々と滑走路に出ていき、それぞれの故郷に向って「お母ちゃーん」と呼んでいたようだと語っておられた。

 家元が思いきり大きな声で「お母ちゃーん」と呼んだら胸の支えがとれて、「これで死んでいける」という気になったと言っていましたが、それは口に出して母の名を呼ぶことで、お母さんの胸に抱かれたような気になったからではないかと思います。ホッと安心するような気持ちになれたからです。いわば、お母さんの徳といただいたのです。
 名を呼ぶということは、とても大事なことではないかと思います。
 名を呼ぶことで呼んだ者の力をもらうからです。
 「梅干し・ウメボシ」と言っていると、唾液がダラ~っと出てきます。梅干しの力をもらうからです。「コンチクショー」と何度も言っていると、畜生みたいな浅ましい心になっていきます。畜生の力をもらうからです。

 今から盛夏がきて、いよいよ暑くなります。「暑い、あつい」と言っていると、いよいよ耐え難いような気になるものです。
 そういうところを善導大師さまは、「応声即現」と申されています。仏さまは、声に応じて現れて下さるという意味です。
 その原理から言うと、お念仏は有難い気持ちになったから申すものではありません。有難くなくても申しているうちに、有難くなっていくものです。

   念仏のまことに味は称えみよ
      称えぬものにはわからぬものぞ
(閑院)

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