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明治の終わりごろ、一人の強盗殺人犯が山梨刑務所で死刑になった。刑が執行される前、「何か食べたいものがあったら申し出よ、誰か会いたい人があったら申し出よ」と伝えられると
、死刑囚は即座に「母に会いたい」と申し出た。母がすぐに呼ばれた。皆はここで母子の別れの愁嘆場が演じられると思っていたが、そうではなかった。彼は母をみると、突然その顔にプッと唾を吐きかけて、「お前があの時、オレを叱ってくれていたら、こんなことにはならなかった」と叫んで、狂ったように泣き出した。
「あの時」とは、彼が子供の頃のことである。村の秋祭りに芝居小屋が建った。母子は二人して見物に行ったが、その帰りに足許が暗かったので子供は他人の草履を間違えてはいてしまった。それは自分がはいていったものより、ずっと上等だった。
「アッ、草履を間違えた」と少年が言うと、母はニッコリ笑って「おまえ、得をしたんだよ」と、ほめてくれた。この時、少年は母がどうすれば喜ぶかということを肌身で知った。それから次々に人の物を盗むようになって、それを母に見せると、その都度、母は上機嫌だった。それから彼の泥棒人生が始まり、ついに死刑囚となる日を迎えたのである。彼が「あの時、叱ってくれていたら」と言ったのは、最初に彼が草履を間違えて帰った時、「悪いことをしたね」とか、「相手の人が困っているだろうね」とか言ってくれていたら、という意味ではなかろうか。
戦争で自分の乗っていた船が撃沈されて、多くの戦友が海に投げだされた。しばらく海に漂っているうち空腹と体温の低下で激しい睡魔がおそってきた。こんな時、眠ったら最後と聞かされていたので、お互いに「大丈夫か」とか、「必ず助けにくるぞ」と自分の目覚ましをかねて声をかけあっていた。最初は大なり小なり戦友の反応の声があったが、疲れがひどくなったのか、それとも息たえてしまったのか、しばらく静寂が続いた。するとその時とつぜん、「お母さん」と叫ぶ声が聞こえてきた。するとその声に共鳴するように、あちこちから「お母さん」「おかあさん」という声が湧き上がった。それは一つの合唱となり、次第に涙声となり泣き声となって海面を覆った。これはその時の生き残りの人の体験談である。
「お母さん」は万人にとって最後の依り所であるはずである。その依り所に、この死刑囚はペッと唾を吐きかけずにはおれないものを感じていた。その心や、あわれというより外にない。部屋に線香を焚いていると、その部屋全体に、線香の香が染みついてくる。それを仏教用語で香習といっている。西諺に「一人の母は百人の教師に勝る」とある。親の一挙手一投足が子の心に薫習して、子の運命を左右していると思う時、親は襟を正さずにはおれないものを感じる。 |
| (閑院) |
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