平成23年12月19日 NO.265
日本人の親子(その62)
ある短大で英語を教えている先生のところに一人の女子学生がやってきて、出版社で働きたいから是非、就職を世話してほしいと言う。そこで先生は、
「出版社というところは相当な学力が要求されるところだから採用はむつかしいよ」と言うと、事務でも雑務でもいいから是非にと熱心な依頼。そこで先生は知り合いの出版社に頼んで事務兼雑務係として採用してもらった。
3年ほど過ぎた頃、その彼女が菓子箱をもって礼にやってきた。添えられた名刺をみると女性雑誌編集部の「副編集長」という肩書きになっている。えらい出世だと驚いてきくと、こんな返事が返ってきた。
「はじめのうちは本当に雑務だけで、仕事といえばお茶汲みと来客の取り次ぎだけでした。同年代の若い女性編集員は、有名作家のところに原稿を取りに行ったり、来社した有名人と打ち合わせをしたりしていて、それを見ると、お茶汲みの自分が惨めに思えて仕方ありませんでした。しかし、そのうち人を羨んでも仕方がない、お茶汲みの自分はお茶汲みに打ち込んでいこうと腹を決めました。そう決めて思い出したのは故郷の母の事です。母がお茶をいれるとき、どうしていたかを思い出しながら、自分で工夫をこらしてお茶を入れることにしました。
ちょうどそんな頃、私の社では新しい女性雑誌を創刊するようになり、スタッフ会議が開かれました。会議の話題は、女性雑誌で一番大切なことは何か、ということで、それは身近かなことへの細やかな心配りではないかということになりました。するとある人が『最近来社するお客さんが、ここの会社のお茶は美味しいというようになった』と言うのです。そして周囲を見回してみたら女性社員の私が専門にお茶を入れるのだということになって、あんな人こそ女性編集者にふさわしいのではないかということで私が抜擢されたのです。思いもかけないことでした」
釈尊がおかくれになるとき、「わたしの亡き後は第一に自らを暗夜の灯とし、第二に法を灯として生きよ」と遺言されている。それが自灯明、法灯明の教えで、仏前に献ずる二本の灯明はこれを表している。法を灯とせよとは、真理(ダルマ)を灯とせよということだが、自らを灯にせよという教えは誤解され易い。この世でアテになるのは自分だけだから自分がしっかりしなくては、というような意味にとられがちだが、そうではない。仏の言葉に「縁に対せずして照す」という言葉がある。外界の縁に振り回されてはいけない、事故の主体性によって自由に振る舞うことを言う。言いかえれば、他を羨まず、吾が道を行きなさいということだが、それが自灯明の教えです。他を羨まず、吾が道をゆく禅家では、「随所に主となる人」と言い、念仏では「往生人になる」という。念仏流でいえば、彼女は往生人になったところから。副編集長という縁が開けてきたのである。
(閑院)

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