平成23年12月1日 NO.264
日本人の親子(その61)
源信の母は奈良・二上山の麓で暮らし、深く仏教に帰依しながら一人息子の源信を育てた。そして息子を比叡山に送ることとなったのである。「立派な僧になってほしい」という母の期待を胸に、源信は比叡山で次第に頭角をあらわしていく。
天延2年(974)5月に行われた季御読経という仏法論議では、相手の高僧を論破し、多くの褒美を賜わった。母の期待に応えることができたというれしかったのであろう、源信はその品を母のもとに送り届けた。しかし母は息子を一喝する。
 「私が願ったのはこのような世俗の名声ではありません。本当に貴い僧となるのをこの目で見てから、安心して死にたいと思っていたのです」という手紙の末尾に一首の歌が書かれていた。

 「世を渡す僧になるぞと思いしに
         世渡る僧となるぞ悲しき」

これを読んだ源信は以後、比叡山の中でも最も人の寄りつかぬ横川に籠り、人々にとって何が大切な教えであるかを考え続けた。著書「往生要集」はその集大成で、日本浄土教wp生みだす書となっただけでなく、はるか中国(宋)まで送られて、向こうの地でも流行の書物となった。
母親がただ優しいだけでは子供の将来を誤らせることもある。源信の母はそれを知って「確かな価値観をもちなさい」と子供にさとしたのである。母にしかできない一喝であった。そのとおり、源信が書いた母への返事が『今昔物語』に次のように載っている。
「仰せの旨、深く心にしみて受け承りました。仰せにしたがい、さらに修行を重ね、立派な聖人になったあかつきに、母上が会ってやろうとおっしゃるなら、そのときにお会いしましょう。
文中の源信とは、またの名を恵心僧都とも呼ばれている平安時代の名僧です。法然上人より約150年前の方で、法然上人が遺言書として残された『一枚起請文』は、恵心僧都の『横川法語』が念頭にあって書かれたものだろうと言われています。とにかく法然上人といわず当時の日本人の精神の土台をつくりあげる上で絶大な影響をおよぼした方でした。その偉大な僧都を育てた母こそ、この母だったのです。この母にしてこの子あり、というところです。中国に「孟母三遷の教え」というエピソードがあります。孟子の母は子の教育のために三か所も住まいを替えたというエピソードです。僧都の母こそまさに、孟母三遷の教え日本版を実行した人でした。
日本の行末が心配されています。その根本は教育がおかしくなって、日本人が劣化しているからです。学校の成績が悪いといって吾子を叱る親は多いが、子が嘘をついた、心得ちがいをしているといって真剣に怒る親は少ない。僧都の母は子を導いていかねばならぬ親の原点として、心にとどめておきたいものです。
(閑院)

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