平成23年9月4日 NO.263
日本人の親子(その60)
彼女は四人きょうだいの末っ子だった。小学校5年の時、父が急死してから運命が狂いはじめた。母に愛人ができて家出したからである。彼女は一番上の姉を母代わりに成長した。母は同じ市内に住んでいたが、子供たちとは、ほとんど行き来はなかった。ここ数年は完全に絶好状態で電話すらしなかった。その母が死んだという通知が三ヶ月前にあった。知らせてくれたのは、母の住んでいた管理人だった。牛乳瓶がたまるばかりなのを怪しんだ管理人が部屋に入ってみると母は死んでいた。きょうだい達が呼ばれて行ってみると、これが母かと思うような老婆がひとり力なく横たわっていた。遺体を荼毘に付し、骨箱を抱いているうちに彼女は自分の心が大きく変わるのに気づいた。あれほど憎んでいた母なのに、その憎しみがどこかに消え去って、思い出されるのは母がまだ母らしかったころのことばかりである。母がいとしいと思う気持ちが湧きだしてくる。これは自分でも予期しない感情だった。自分で自分に戸惑いながら、彼女は考えた。

自分たちは世間の人が滅多に経験しないようなことを体験した。これを無駄にしてはならない。生きている人間は、人の死から何かを学びとっていかねばならない。私は母の死から何を学びとっていけばいいのか。彼女はじっと考えた。そしてそうだ、今後はこのように考えていこうと心に決めた。それは、あの冷たい母の仕打ちは、母が私たちを愛してなかったからではない。父の死を機に、「あんたたち、お父さんが死んだのだから、今までのような甘えた考えでは、これから生きていけないよ。しっかりしておくれ」と私たちに自立を促すために、あのような仕打ちをしたとおいことである。そのように心に決めてみると、今までは気づかなかったことが思い出される。
孤児同然に育ってきた私が、今は人並みに家族に恵まれ幸せいっぱいに暮らすことができている。「あゝ、生れてきてよかった」-と思えるこの幸せは誰が与えてくれたのか。母がいなかったら今の幸せはないではないか。それなのに私たちは何という仕打ちを母にしてきたのか。老いた母は心細くなって、時には私たちの声が聞きたくなって、電話をしてみたいと思ったこともあったのではなかろうか。その都度、頑なな私たちの態度を思いだし、心が萎えて電話を止めたのではなかろうか。そして、あの孤独の死である。母はどんなに心細かっただろうか。考えているうち彼女の頬に涙が流れてきた。
「お母さん、産んでくれてありがとう。一人で死なせてごめんなさい」。
彼女の手記はこんな言葉で結ばれていた。
これは去る平成7年4月、読売新聞「こちら社会部」に欄に載った、ある女性の手記の要約です。投稿者は長崎県大村市三十三才の主婦とあるだけで氏名は不詳。一読して忘れられないものだったのでご紹介させていただきました。
(閑院)

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