平成22年11月9日 NO.259
人生二十八年の 旅路をここに終ります。
皆さん、お世話になりました。夫よ、子供よさようなら。
母さん、ほんとにありがとう。私の心のおろかさに 我ままばかり言い張って
あなたを泣かせてきましたね。
私の宿業だきしめて、ミオヤも共に泣きますと、聞かせてもらったその日から、
心の闇は晴れました。
ようこそ教えてくださった、泣く泣く三途に沈む身か、無碍の白道ひとすじに、
久遠のミオヤとまいります。
一日ごとに腫れていき、痛みもつのるこの腹を、なでては泣いたこの口に、
今では念仏たえませぬ。
私が往ったその後で、明け暮れの三人の幼な子が、
母を尋ねて泣くでしょう。思えば心が残ります。
お浄土さまから私は、じっと護っておりますよ。
世間の人に愛されて 生きぬくように頼みます。
幼き三人の子供らよ、母さん恋しと思うなら、み仏さまに手を合わせ、
南無阿弥陀仏と称えてね。
落葉をおくる風澄みて、み空にかかる月さえも、
雲ひとつなく冴えわたり西へ西へと急ぎます。
私も往きます西の国 輝く光のお浄土へ
それでは皆様さようなら、
南無阿弥陀仏 阿弥陀仏

三人の子を残し、二十八才でガンで逝った森友敏子さん(佐賀県唐津市)の死後、枕の下からでてきた遺書です。
日本人の親子(その56)
斎藤茂吉は高名な歌人だが、「死にたまふ母」と名づけられた一連の歌は、彼の作品の中でも代表的な傑作といわれている。
「ハハキトク」の電報が東京の茂吉のもとへ届いたのは、大正2年の春のことであった。茂吉は急遽、上野駅から山形へ向った。

  みちのくの 母の命を一目見ん
     一目見んとぞ ただにいそげる

母の枕元にやってきた息子をみて、母は何か言おうとするが言葉にならない。茂吉はその夜、母に添寝した。
近くの田圃からはカエルの鳴き声が聞えてくる。

  寄り添える吾を見守りて言ひたもう
     何か言ひたもう われは子なれば

  死に近き母に添寝のしんしんと
     遠田のかはず 天に聞ゆる

27年前、私も死の床にある母に病院で添寝をしていたが、この時、しみじみ思いだしたのがこの歌であった。その時聞えてきたのは、かわずの声ではなく救急車のサイレンだったが、それを聞きながら、しみじみ人間の運命を思った。

茂吉の母は、息子の懸命の看病の甲斐もなく亡くなった。葬儀の後、皆で行列をつくって火葬場へ向った。昔ながらの火葬場だった。茂吉は薪に火をつけて遺骸が灰になるまで見守った。そして母が焼けるまでそこにいて、夜の明けるのを待って骨を拾った。

  わが母を焼かねばならぬ火を持てり
     天つ空には見るものもなし

  灰の中に母をひろへり朝日子の
     のぼるがなかに母をひろへり

茂吉は母の死を看取るため夜汽車にゆられて山形の田舎まで帰った。親の死に目に会いたい一心からである。子が親の死に目に会いたいと思うのは、親が最後まで気掛かりなのは子供のことだからだ。昔から「親の死に目に会えないのは親不幸」と言われるが、こんな言葉は子々孫々に伝えて大事にしていきたい。それを忘れると人間が人間でなくなっていくから。

老人ホームに勤めている人から聞いた話だが、ある老爺が夜中の2時に息をひきとった。そのことを家に知らせると、眠い目をこすりながら起きてきた息子から、電話口で、「今、何時だと思っているのだ」とどなられた。
またある施設では、老母が死んだので息子に連絡すると「忙しいから行けない」と言う。そこで職員が荼毘にふして「遺骨をひきとりにきてほしい」というと、これも忙しいといって取りにこない。それでも受けとってもらわねば困るとねばると、「宅急便で送ってくれ」。しかし、これはまだいい方で、「受け取れないからそちらで処分してくれ」という返事もあるそうだ。

誤った個性の尊重が親子の関係までおかしくさせている。思えば戦後の教育には親子の情愛を深めるための配慮がなされてなかった。
(閑院)

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