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アスファルトが傷んで長らくの懸案となっておりましたお寺の車道が改修されて面目を一新いたしました。平成22年にお迎えする法然上人八百年遠忌のよき記念事業となりました。
その車道の入口の両側に石碑が建立され、一方に「作仏」、もう一方に「度生」と刻まれています。作仏は「仏になる」と読み、度生は「生を度す」と読みます。これは大乗仏教に一貫して流れる根本精神で、仏教徒は等しくこのような願をもちたいものです
まず「仏になる」とは浄土に生まれることで、浄土に生まれたいと願うのは、自分が安楽をむさぼるためでなく、浄土で仏の悟りを得るために浄土に生まれたいと願うのです。人間は自己中心の迷いの日暮しを積み重ねながら生きています。その迷いの生活を脱却して仏さまのお悟りを得させてもらうために浄土を願うのです
次に「生を度す」の「生」とは、一切衆生を一字で言い表す時の文字で、全ての生きる人々を意味します。次に「度」とは救うという意味で、「生を度す」とは苦しんでいる人々を救うという意味になります。
無量寿経に、浄土に生まれた人はアミダ様から人を救う法力を与えられて、もう一度、苦しみ多きこの世に帰ってくることができると述べられています。お浄土を願うのは、このためであって、自分の安楽だけを願って浄土に生まれたいと願っても浄土に生まれることはできないとされています。
浄土に生まれた人は、人を救う法力を授けられて、もう一度、悩み多きこの世に帰ってくることができるということですが、その法力が六種類あって、それを六神通と申します。これが人々を救うことのできる法力です。その一つを天耳通といいます。これは人々の愚痴をウンウンと辛抱強く聞いてあげられることです。一般人にとっては、人の愚痴を聞くより自分の愚痴を聞いてもらいたいという気持の方が先に立つものです。だから人を救うことができないのです。
「暮おそき窓へ雀のきてくれし」
これは、ある死刑囚の作品です。「きてくれし」というところにこの人の感情がこもっているように思います。独房の中でこの人は淋しく不安な日々を送っていたに違いありません。しかし、心の悩みを心棒づよく聞いてくれる人はどこにもいません。それを聞いてくれるのは雀だけです。自分の愚痴を聞いてくれる雀だけです。自分の愚痴を聞いてくれる雀は、この人にとってはただの雀ではありません。まさに「救い主」そのものだったに違いありません。それが「きてくれし」という五文字の中にこめられているような気がいたします。
人を救うというようなことは、人間の力でできることではありません。仏力だけがよく為しうる業です。だからお浄土へ生れて、その力を与えたまえと祈るのです。
この石門をくぐって車道を登る人は、作法度生、即ち仏になって苦の人を救いたいという願の心を発していただけたらと思います。 |
(閑院) |
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