平成20年9月13日 NO.248
日本人の親子(その47)
 松尾芭蕉と並んで江戸時代を代表する俳人が与謝蕪村である。その母は苦労の人であった。丹後国(京都府の北部)出身の彼女は後に大坂の庄屋へ奉公に出て働いていたが、主人の手がついて子を産んだ。これが後の与謝蕪村である。だが本妻にはすでに二人の子があった。しかし、いずれも女であったために蕪村は後継ぎとして育てられた。だが当然のことながら周囲の目は冷たい。母は後継ぎの母とはいいながら、その立場は所詮、奉公人でしかなかった。人目を絶えず気にして、働きづめに働いた。子供のことだけを念じて耐えに耐えて生きていた母は、蕪村が十二才の時に病を得て逝ってしまう。頼るは父だけになってしまったが、その父も四年後、亡くなってしまった。大家族の中で、もう、かばってくれる人は一人もいなくなってしまった。そうするうちに親族の間から「姉に婿を迎えて家督を継がせるべきだ」という声がだんだん大きくなっていって、ついに公然と言われるようになった。そういう空気の中で蕪村は追い立てられるように家を出たのである。天涯孤独の蕪村に行く当てはなかった。絵を学び、俳句を詠みながら漂泊の人生が、こうして十七才から始まったのである。「放浪」とか「漂泊」というと、なにかロマンを感じさせられるものがあるが、現実の旅は厳しいものであったと想像される。そんな厳しさの中で、無条件で受け入れてくれるものは親だけであったとしみじみ思い知らされるものがあったと思われる。
  「父母のことのみおもふ秋の暮」
彼の代表作の一つであるが、また六十一才になった詩の中に次のような一節がある。
  「むかしむかししきりにおもふ慈母の恩 慈母の懐抱別に春あり」
懐抱とはふところの中のことであるが、するとこの意味は、遠い昔のことですが、優しかった母のご恩をしきりに思いだします。母のふところはどこにもない格別な春のような温かさがありました、というような意味になろうか。蕪村が母と死別してから、すでに五十年近くたっている。他の記憶は年とともに薄れていくが「母の温かさ」は反対に、より一層強くよみがえってくるから不思議だ。
古歌に「恋しきと思ふ心は我ならで親の心の通いくるなり」とある。子が親を恋しいなと思うのは一見子が発す心のようである。だが実はそうではない。親の方が先に、わが子よかれ、よかれと思ってくれているから、その心に反応して子の心に親が恋しいなという心がおこるのだから、恋しいと思う心の出どころは親の心の方にあるのだという意味だろう。蕪村が五十年たっても親が恋しいと思うのは先立つ母があの世で、わが子のことを思いつづけてくれているから外ならない。親恋しと思うことができるのも親のおかげなのである。
(閑院)

「朝、出かけようとしたら下駄の鼻緒がぷつんと切れた。縁起でもない」
今日ではこんな使い方もされているが、もともと仏教語の衆縁生起という言葉を略したもので、「おかげさま」というような明るい意味合いである。
鼻緒が切れたことを出かける前で良かったと受け取れるか否かは、心の置きどころ一つである。

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